岩手に出でよ!21世紀の原敬
Japan In-depth / 2019年3月30日 18時51分
上昌広(医療ガバナンス研究所 理事長)
【まとめ】
・岩手に感じる一体感。一方、戊辰敗戦の影響は現在も残る。
・地域力は人材力、教育の向上は不可欠。盛岡と長州の違いとは。
・岩手振興には東アジアでの立ち位置考慮と人材育成が必要。
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東日本大震災以降、福島県浜通りの医療支援を続けている。関西生まれで、東京の大学を卒業した私が東北地方と付き合いはじめて8年間が経過した。
東北地方のお付き合いは福島県以外にも拡がり、その多様性に驚くことが多い。1月末、岩手県盛岡市を訪問した。盛岡から受ける印象は福島とは全く異なっていた。
今回の訪問の目的は、岩手県立病院医学会の春季学術集会に参加するためだ。参加者は岩手県内に存在する26の県立病院で勤務する医師である。
宮田剛・岩手県立中央病院長に機会をいただき、「現場からの医療改革 福島での経験」という講演をした。私は自説である地域振興は人材育成という話をした。
学術集会が終わった後は懇親会だった。お酒も入り、距離は一気に縮まった。この時、彼らから感じたのは一体感が強いことだ。岩手県立病院に勤務する医師たちが一つのグループを形成し、実際に機能していることを実感した。これは会津、中通り、浜通りの三つの地域に分かれ、一体感がない福島県とは対照的だった。
私は、これまで県という行政区分にいいイメージを抱いたことがない。国と市町村の中間に位置する実態のない存在と感じることが多かった。これは私の生い立ちと関係がある。それは私が兵庫県生まれだからだ。
兵庫は明治時代に摂津、播磨、丹波、但馬、淡路が合併して誕生した。江戸時代まで、摂津は畿内、播磨は山陽道、丹波・但馬は山陰道、淡路は四国に分類され、気候も風土も全く違った。
兵庫県という大きな県が出来たのは、戊辰戦争の戦後処理のためだ。幕末まで兵庫県で最大の都市は姫路だった。1850年(嘉永3年)の人口は2万4,000人で、神戸の2万2,000人を凌ぐ。
▲写真 姫路城 出典:姫路市ホームページ
この地を治めたのは、譜代大名筆頭の酒井雅楽頭家だった。姫路の悲劇は佐幕を貫いたことだ。幕末の君主忠績(ただしげ)は最後の大老を務め、維新の志士を弾圧した。姫路藩で台頭した尊王論には、「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」として押さえつけた(甲子の獄)。
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