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「石原慎太郎さんとの私的な思い出4」 続:身捨つるほどの祖国はありや 17

Japan In-depth / 2022年5月13日 11時0分

ところで、「男らしい男」という番組で石原さんは?


たぶん、そのテレビ番組でも何人かの「男らしい男」の一人として紹介されたに決まっているが、まったくおぼえていない。未だ政治家になる前の石原さんだったような気がする。私といえば、自分の『太陽の季節』は、大学受験に成功した後にしか来ないと決めこんでいた。だから、高校時代、友人が石原さんの『若い獣』という小説を教えてくれても大きな関心を惹かなかった。私は受験に押しつぶされそうだったのだ。


それでも、私は、『文芸』誌(昭和41年1月号)に出ていた石原さんの『水際の塑像』を熱心に読んだ。16歳のときのことになる。とくに冒頭の父親に連れられての海岸、という部分が気になった。


「その頃私には、毎日曜日の朝、父と一緒に早起きし散歩する習慣があった。弟も一緒だった。」とある。


その情景は、処女作『灰色の教室』のなかに出てくる主人公義久の回想、


「鐘の響きで送られて去った時間は再びその音と共にゆっくり戻ってくるような気がする。


義久はうつくしい鐘の音に過ごした彼の幼稚園生活をふと思い出した。」とある場面と、私の心のなかで共振する。父親に手をとられて通った幼稚園の思い出。


『水際の塑像』は、船会社の小樽支店長をしていた父親に連れられて、一人の青年船員が沈没しかけた我が船を救うべく、ロープを体に縛って「真っ暗な、大嵐の海に一人で飛び込んでいった」、「もう助からないかもしれないと思っていたのだけれど、そうした」という場面に遭遇する場面の話に飛躍する。


一等(チヨツ)航海士(サー)と呼ばれていたその青年の、「全き静けさに形造られた塑像」が水際の塑像なのである。石原少年にとっては、自宅にも遊びにきて楽しませてくれる馴染みの船乗りだった。


どうして助からないかもしれないのに、誰のために海に、と問いかける息子に、石原さんの父親は、


「みんなのためにさ。そして、自分のためにもだ」と答える。


「自分」と問い返す息子に、更に重ねて、


「そうだよ、自分のためにもだ。どうせなら、黙って死ぬことはない。死ぬことだけなら、そんなにたいしたことはない。人間は、誰でもいつかは死ぬのだからな」と


「自分へ説くように」言う。


石原さんの父君は、三十代の終わりか四十になりたてのころ、初めての脳溢血の発作で倒れた。その後もなんどかの発作を繰り返し、自宅での絶食、日常どおりに毎度毎度の食事を繰り返す家族の目の前で、2週間の断食をするのだ。一度だけではない。そうしたたくさんの壮絶な療法を試す。しかし、遂に十数年の後、仕事中に会議室で倒れ、そのまま身まかる。石原さんは高校生だった。死に目には会っていない。


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