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「石原慎太郎さんとの私的な思い出4」 続:身捨つるほどの祖国はありや 17

Japan In-depth / 2022年5月13日 11時0分

死の瞬間に間に合わなかった父親の死に顔に、石原さんは海に死んだ一等(チヨツ)航海士(サー)の凍てついた死に顔を重ねる。みんなのため、自分のために、真っ暗な大嵐の海に一人で飛び込んだ青年の塑像のような父親の顔。「死ぬことだけなら、そんなにたいしたことはない。人間は、誰でもいつかは死ぬのだから」と幼い石原少年に語り聞かせた父親。


私が『水際の塑像』を初めて読んだのは16歳のときである。何回か読んでいる。今回読み直してみて、滂沱の涙を禁じえなかった。そうか、そういう父親像が石原さんのなかにあったのか、と。


高校生のときに父親を亡くした石原さんにとって、あるいはこの人が父親代わりだったのではないかと私が想像している方がいる。賀屋興宣である。アメリカとの戦争を始めた東条英機内閣の大蔵大臣を務めた方で、戦前から大蔵省の大ボスである。



写真)賀屋興宣大蔵大臣(東条英機首相の左後ろの髭をたくわえた人物)(1943年)


出典)Photo by FPG/Getty Images


どれほど大ボスだったかというと、身は巣鴨プリズンにありながら古巣の大蔵省に自室に引かせた電話で部下や外の議員らをリモート・コントロールし、たとえば、遺族扶助料を支払わせたほどの力を有していた。もちろん、大蔵省にいた元部下たちや国会議員らが賀屋興宣を深く尊敬していればこそ可能だったことである。


石原さんとの年齢差43年。賀屋興宣は東京裁判の結果、終身刑の判決となって昭和30年まで獄中にあった。それが昭和33年の選挙で衆議院議員となった。石原さんが初めて選挙に出馬し、300万以上の票をとって参議院議員となったのは昭和43年、1968年だから、賀屋興宣は79歳の衆議院議員として4回の当選を重ねている身だったことになる。


その賀屋興宣なる人物、意外なことに、私の尊敬する平川祐弘先生の『昭和の大戦とあの東京裁判』(河出書房新社 2022年)に登場する。なに、実のところ意外でもなんでもない。賀屋興宣は、平川先生にそう書かせるほどの重みをアメリカとの戦争の直前の日本で持っていたのである。平川先生は、


「石原慎太郎は議員となって賀屋興宣(一八八九~一九七七)代議士の人間的迫力に感銘した由である。」(同書308頁)と書いている。


平川先生は賀屋興宣の著書として『戦前・戦後八十年』(経済往来社 1976年)を紹介する。


「一九七二年に書かれたが、古本の値が突出して高い。A級戦争犯罪人とされた政治家の中でこの人の自伝は読むに値する、と思う人がいる証拠だろう。」とある。


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