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「石原慎太郎さんとの私的な思い出4」 続:身捨つるほどの祖国はありや 17

Japan In-depth / 2022年5月13日 11時0分

『「もう僕には大切な用事なんぞはありはしないんだよ。あるのは死ぬことだけさ。しかしこれは難しいな」と吐き出すように』言って、


「いろいろ考えてはいるんだが分かる筈はないよなあ。死ぬというのは最後の未知だものね、しかし、僕にはわかってきたよ、死ぬのは全くの一人旅だな」


そのときの石原さんは86歳、死の3年前である。その前、2013年、80歳のときには脳梗塞を起こしていた。


その石原さんが、自ら悟った自らの死について語る中身が、なんと、賀屋興宣が『私の好きな日本人』で言ったこととして石原さんが記していることと完全に同一なのだ。


「死ぬとね一人で暗い道をとぼとぼあるいていくんだな。多分長い道だろうな。そしてその間に僕を悼んだり懐かしがっていた連中も皆僕を忘れてしまい噂もしなくなる。肉親にしたってそうだものな。


そしてその内僕も僕のことを忘れてしまうんだよ」


と言い捨てて、


「だからつまらんことだよ死ぬというのは」と結ぶ。


なんと、賀屋興宣が「低い乾いた声で笑ってみせた」ときと同じことになってしまっている。


それほどに、賀屋興宣という人は石原さんに決定的な意味を持った人だったのだろう。


すると、石原さん自身も「強烈なニヒリズム」の持ち主だったということか。


それは、織田信長の唄った「死のうは一定、しのび草にはなにをしよぞ。一定かたりをこすのよ」につながる。「いまいましいほどの焦慮」という石原さんの言葉が続く。(167頁)


石原さんは、死についてそのように考えていたのだ。


それにしても、である。


いまから振り返ってみると、作家が二人も「ミスター・ダンディ」に入っていたとは。それも平凡パンチである。今の若い人は知るまいが、若い男性向けの、軽い週刊誌である。時代というほかない。1967年とは、団塊の世代が20歳になろうとしていた、高度成長が8年目にさしかかっていた、上り一本調子の日本だったころのことなのである。


冒頭に戻る。


石原さんは、いったいなぜあれほどの人気者だったのだろうか?


政治家として、どれほどの時間と精力を注ぎこんだのかは私にはうかがい知ることもできない。しかし、石原慎太郎と賀屋興宣と、歴史は政治家としてどちらが重要だったと判定するだろうか。


賀屋興宣だろうと思う。


では、石原さんは、いったいなにだったのだろう?


「『職業は石原慎太郎』


本人がよくそう言っていたようにどんなカテゴリーにも収まらない人でした。」と四男の石原延啓氏は書いている。(月刊文藝春秋 2022年4月号 105頁)


では、死んでしまった石原さんは、人気者であり続けるのだろうか?


しばらくは。しかし、50年、100年の後、歴史家は石原慎太郎を青年として『太陽の季節』を書いた作家以外の、どんな物差しで測ることができるのだろうか?


私が個人的に知っている石原さんの温かさ、優しさ、繊細さ、懐かしさは、歴史家の目にとまるのだろうか。


森鷗外は、文学者には理解を越えた軍医としての彼の人生の部分は切り捨てられてしまっている。石原慎太郎を全体として理解することは、歴史家にとって「テーベス百門の大都」以上に難しい課題になることだろう。


トップ写真)東京都知事時代の石原慎太郎氏(2008年11月27日 東京・新宿区)


出典)Photo by Junko Kimura/Getty Images


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