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「石原さんとの私的思い出7」続:身捨つるほどの祖国はありや22

Japan In-depth / 2022年9月21日 21時0分

「石原さんとの私的思い出7」続:身捨つるほどの祖国はありや22




牛島信(弁護士・小説家・元検事)





【まとめ】





・石原さんが入院中の私を見舞ってくれたことがある。





・石原さんにとって裕次郎さんの思い出の溢れた場所の再訪。





・「酔狂」という言葉は、石原さんが私に繰り返し教えてくれた言葉。





 




石原さんが入院中の私を見舞ってくれたことがある。


2005年の2月初めだった。入院したのは2月の3日から7日までの5日間で、手術をしたのが4日の金曜日だったから、たぶんその直後の土日のどちらかだったのだろう。もっとも私には曜日の感覚はまったくなかったのだが。


場所は信濃町にある慶応病院の5階にある病室だった。私はそこで胆のうを取り去る手術を受けたのである。


突然の見舞いだった。見城さんといっしょだった。見城さんには予め入院の話をする機会があったのだろう。


それにしても、二人しての病室への直接の訪問だったから、事前に見城さんから問い合わせの電話があったとしか考えられない。未だガラケーの時代だった。その電話で、私が病室の番号を知らせたのだろうか。しかし、その電話までは石原さんが見えるという話は聞いていなかったから、見城さんの電話に私は少なからず驚いたはずだ。しかし、手術して間のない私は、ぼんやりしていたに違いない。


それにしてもどうして私をわざわざ都知事だった石原さんが見舞ってくれたのだろうか。私に一日も早く芥川賞をやりたい、だから早く治って、とにかくさっさと小説を書けよ、こっちは期待しているんだから、という激励だったということなのか。どうもわからない。


慶応病院での私の病室は、石原裕次郎の入院していたのと同じフロアだったようだ。私は、慶応病院への入院が決まった時、すぐにいっさいの世話をしてくれたM医師に、「裕次郎の入院した部屋にしてください。」と頼んだ。


しばらくして、M医師に「いや、あの部屋はふさがっているので、その下の部屋にする」と言われた。


どうも私は「下にする」と言われたので、うかつなことだが、最近まで裕次郎の入院した病室の一階下のフロアに入ったものと思い込んでいた。ところが、これを書くのでM医師に改めて確認してみると、同じフロアだということだった。「なに、裕次郎のいた部屋は同じフロアのすぐ近くだよ」と教えられたのだ。


だから、石原さんはその同じフロアにある病室に私を見舞ってくれたことになる。どんな思いだったろうか。


「新築したばかりの病棟の奥の部屋は表通りに面していて、大きな窓からの光量が多すぎるためにいつもベネッシャンのブラインドが下ろされていた」(『弟』幻冬舎文庫411頁)と記された部屋は、私の入院していた部屋のすぐ横だったことになる。


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