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平成19年の年賀状 「『我が師 石原慎太郎』、日米半導体戦争、そして失われた30年」・「三回の欠礼、M&Aとコーポレート・ガバナンス、そして人生と仕事」

Japan In-depth / 2023年7月12日 18時0分

私のその習性は、小学生のときから受験のために生きてきたという経緯があってのことだ。東大に合格するために役立つことしかしてはならない、それ以外に時間を費やすことは「罪」だと思いながら、しかし「それ以外」のことをして生きてきた20年があり、その後は「雀百まで踊り忘れず」で、そうしたものの見方の虜になって生きてきたような気がする。東大は司法試験に替わり、さらに弁護士としての目的達成になった。


弁護士業は、依頼者を獲得し、その依頼者のために他の弁護士の誰よりもより良い結果をもたらし、約束した報酬を受け取る、という仕事だ。時間制で報酬をもらうのは、常に最善の結果のために働いているということであって、この理を変えない。


そうやって生きてきて73年。


今の私は「問題は仕事とは何か」ではなく、「問題は人生とは何か」だと言うだろう。前提にあるのは、仕事は人生の全てではない、という自明のことである。20歳までの私はそう思っていなかった。滑稽というしかない。人生は、もしあるとすれば、東大に合格した後にあると考えていたのだ。それほどに受検勉強の圧迫感は強かったと言うしかない。


東大入試が中止になったあおりで2浪となった。そうした私が大学に入学した後に大学で学ぶことに関心が湧かなかったのは少しも不思議ではないだろう。入学後、私は大学とはなにかを自分で勝手に定義したのである。私は自宅で本を読むことに熱中していた。会心の快楽の日々である。読書は、相対性理論から鷗外、漱石まで、あらゆる分野にわたった。


それ故にこそ、私は司法試験の勉強については勤勉だった。が、大学へ行った学んだことは少ない。星野教授の民法総則と民法演習を少々、それに会社法を鳳先生に。しかし幸いにして、司法試験の勉強の教材は巷に溢れてかえっていた。独学である。


そんな私が弁護士として生き続けられたのは、弁護士という仕事がよほど性に合っていたからなのだろう。弁護士となってからも勉強は続き、それは独学であるしかない。大歓迎である。


むしろ具体的に存在したのは、弁護士として時間が多過ぎるという事実だったのだと今にして思う。私は恋愛小説を書くことで文士になることも欲していたのだ。私の書いた小説には恋愛はほとんど登場しない。


「恋愛小説を書け」と、素晴らしいチャンスを石原慎太郎さんがくださったにもかかわらず、私は書かなかった。なぜかは分かったようでいて、よくわからない。


我が人生は、これまでのところ幸運の連続だったから、求めたものの一定部分はそれなりに得られた。幸運には感謝の他ない。もっとも、「人生ってのは運ですぜ、先生」とうそぶいていた某有名社の社長は後に失脚した。確かに彼は幸運のおかげで傍流から社長にのし上がった。しかし、そこまでだったのだ。どうやら、幸運は過去形でしか存在しないもののようだ。


さて、これから先に何を求めたものか。自分としては、おぼろげながらも分かっているつもりである。


 


トップ写真:中曽根総理大臣とレーガン米大統領(当時) 1987年4月1日 アメリカ・ワシントンDC


出典:Photo by Diana Walker/Getty Images


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