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平成25年の年賀状 「10年ひと昔」・「父との生活」

Japan In-depth / 2023年10月12日 22時17分

そういえば、同じ東武デパートのなかにある北浜という和食屋では、鰹のタタキというものを初めて口にした。これも鮮明な記憶として残っているほどに美味に感じた。 





父親は昭和10年、1935年に入社して間もなく徴兵で兵隊になった。そこで軍隊の内務班でどれほどひどいリンチを受けたかを何度もなんども聞かされた。





あげく結核にかかり、除隊となったのは戦争が終わる前のことで、再び東京は丸の内での勤務に戻った。当時の結核にはストレプトマイシンといった特効薬はなかった。それで父親は極端に栄養に気を配っていた。





給料はすべて食べてしまったね、というのが口癖で、食後に果物がいつもあった。小さな庭に生えている柿の若葉を摘んで薄くスライスして食べたりもしていた。納豆の食べ方も独特で、卵と海苔と鰹節、それにネギを刻んで入れる。私は後の浪人生として上京して寮に入ったおり、朝食に出た納豆に驚いた。そこには小さな器に納豆だけがポツンと置かれていたからである。 





46歳のときにゴルフを始め、それが一生の趣味、いや趣味以上の生活そのものになっていた。雨の烈しい日にもゴルフに出かける。雷が鳴ったらアイアンのクラブを空に向けて突き立て、そこに雷が落ちて死ねば本望だと半ば本気で言っていたほどだった。中年で始めたが10年経たずしてシングルになり、シニアとはいえクラブ・チャンピオンには何度もなっていた。友人たちとこそかしこのゴルフ場に遠征することも愉しみの一つだったようだ。 





そんな父親を含めて6人の家族の面倒を見ていた母親はどれほど大変だったろうかと、今になって感慨がある。





父親は、日曜日の早朝、忘れたころに突如、窓、カーテンや障子を開け放ち、バタバタと1人掃除を始めて、眠っている家族をたたき起こすことがあった。父親なりに清潔に暮らしたいのにそれが叶わないままに我慢している日々への苛立ちが爆発することがあったということなのだろう。





私の母親はとても明るい、料理の上手な、子ども思いの、優しい女性だった。しかしとても清潔好きだったというほどではなかったような気がする。父親も、自分が結核の療養をしていたときには、母親が神経質に清潔好きでなかったので助かったと言っていたりもした。





私がまだ覚えていないほど幼かったころ、沸いている鍋のお湯を頭からかぶりそうになったことがあり、母親はとっさに自分の左脚で受けたという。もしそうでなかったら。私は別の人格になっていただろう。母親が死んだ日、私は改めて母親のヤケドの後のある左脚をさすったものだった。 





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