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平成25年の年賀状 「10年ひと昔」・「父との生活」

Japan In-depth / 2023年10月12日 22時17分

たとえばレコ―ドの収集である。もちろんSPの時代である。また、カメラにも凝った。当時はドイツのライカが憧れの的であり、家一軒の値段だったと聞いた。私の東京時代、6歳から10歳までの間に私は父親にDPE,現像と焼き付け、それに引き伸ばしを手伝わされたものだった。





小さなちいさな真っ赤な電球の灯りだけの空間で、フィルムを薬品で処理する。両側にぶつぶつと穴の並んだフィルムに小さな、白黒が逆になった映像が現れてくる。現像である。





そのフィルムを、底が広くなった縦に長い、四角い器具の上に置いて、上から強い光を当てて引き伸ばして焼き付ける。小さな二人だけの空間を満たしていた薬品の匂いを覚えている。バットという底の浅いホーローの四角い洗面器に、薬品を溶いた水が満たされているのだ。そのバットの水溶液に焼き付けたばかりの印画紙を浸すと、少しずつ少しずつ、魔法のように画像が浮かび上がってくる。その印画紙を別のバットに張った水で洗い、出来上りである。





自分が写真好きでツァイス・イコンというドイツの会社の、蛇腹でレンズを引き出すコンパクトなカメラを持っていた。これは今も兄の手元にある。私にもコニレットという小さなカメラを買ってくれた。





小学生だった私は、このコニレットには苦労した。というのは、コニレットというカメラは横穴のないフィルムを使っている特殊な方式だったのだ。遠足に行った先でフィルムを買おうとしても、コニレット用のフィルムは売っていないところが多く、とても残念な思いをしたものだった。 





後に私が学生として東京に住むようになると、出張に上京した父親と銀座を歩いていると、中古写真機店があるたびに父親は立ち止まって覗きこむ。飾ってある一つひとつの中古の写真機について、あ、これはね、と学生だった私に説明せずにおれない様子だった。父親は50代だった。私がゼンザブロニカという名を知り、ハッセルブラードなどという好事家した知らない名前を憶えているのは、こうした折の会話からだった。





銀座では四丁目の角にある和光をいっしょにのぞいたこともあった。「手を打触れて壊したりしたら、どれも高いものだからね、気を付けて」と言われた。今、私はその店で買い物をすることがある。行くたびに父親といっしょにいたときのことを思い出して、こそばゆい気がする。 





上京してきた父親は私のアパートに泊まるのが習慣で、夕食を二人でたびたび摂った。私がしゃぶしゃぶというものを生まれては初めて食べたのも池袋の東武デパートのなかにあったスキ焼の名店でのことだった。スエヒロといったと思う。こんなに美味しいものがこの世にあるのかと感じた記憶がいまでも鮮烈に残っている。





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