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平成26年の年賀状・「本を読むことこそ我が人生」・「ヘミングウェイの『移動祝祭日』と石原さんのこと」

Japan In-depth / 2023年11月16日 12時26分

「牛島信は、このすらすらと綴った私語りで、ついに日本文壇史の中に名を連ねることとなりました。」と感想を書いてくださった。





私語りか、と思った。そう見えるのか、という軽い驚きであり、そうなんだなという納得であった。





『移動祝祭日』にはエピグラフとして、





「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日なのだ。」とある。





石原さんの最初の作品『灰色の教室』には、





『この年頃にあっては、欲望が彼等のモラルなのだ。





自己の中に深く入り込んでいくには、彼等にとって不可能な秩序が必要だったのだ。人々はこれらの悲劇的な、落ち着きのない魂の呼吸しているこの旋風に依って醸し出される速力の為に悩まされるのだ。それは、ほんの子供らしいことから出発する。そして人々は始めてただ遊技をしかそこに見かけないのである。





       ――コクトー「怖るべき子供たち」』





という長いエピグラフがある。若くて無名の石原さんが、どんなにエピグラフが大事だと思っていたのかは、上記の本に『太陽の季節』で文学界新人賞に応募する際のエピソードとして出ている。





「当時はこの国ではまだあまり知られていなかったジャン・ジュネか、彼に影響を与えたマルキ・ド・サドのどちらかの刺激的な言葉を選んでエピグラフに載せようと思い、サドの言葉にした。」(94頁)





もっとも選考委員の武田泰淳の意見では「冒頭のあのサドのエピグラフは外したほうがいい」と編集者に言われて、「あれがついていると落選ですか」と質だし、慌てて否定されたので簡単に同意したとある。(95頁)





私は?





若くて、野心的で、飢えて、悶々としていた。私も同じだったのだ。





パリでもなく、どこでもない異国に若い時代をすごすことはなかった。





私の移動祝祭日があるとすれば、東京しかない。移動しない祝祭日である。





その代わり、東京が変化してくれる。私は昔、若いころ、木賃アパートに住んでいたのだ。それから50年余。確かに、祝祭の連続ではあったと思っている。





そういえば、5歳年上でヘミングウェイの同時代人といってもよい芥川龍之介は、なんども隅田川について書いている。大川、と呼んでいるが、そこを幼児のときから中学を卒業するまで毎日見ていたと、住まいが変わって月に二、三度出かけて行って川面を眺めるようになっても、懐かしい光景としてしじじみと思い出している。彼が自殺の直前に書いた『或阿呆の一生』には1927年6月20日と日付が記されている。相互になんの因果関係もありはしないが、その直前、ヘミングウェイはハドリーと正式に別れすぐにポーリンと結婚している。それから100年。『侏儒の言葉』を書いたあれほどの知性は日本に孤立したままでいる。日本語だからである。





久しぶりに『移動祝祭日』を読み、高見さんの解説に到るに及んで、私は自分が生まれ変わった気がした。74歳の私の心は22歳のヘミングウェイと少しも変わらないと感じたのだ。私はいま、目のまえが新しい刺激に満ち満ちていると感じている。





トップ写真:アメリカのジャーナリスト、小説家、短編作家、アーネスト・ヘミングウェイ(1898-1961)出典:Bettmann /Getty Images




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