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「平成31年の年賀状」団塊の世代の物語(3)

Japan In-depth / 2024年4月11日 21時43分

私は、さいきん”A Moveable Feast”の朗読を原語でよく聴く。





他人事ではない気がする。





57歳で書き始めたパリの青年時代の回想といえば、自分にとってはまだまだ先のことのような気がする。が、死の4年前と思うとわからなくなるのだ。「死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」と徒然草155段にもあるとおりだ。





あの石原さんが、今は自分の死にしか興味はないと言っていたのはいくつのときのことだったか。





他人事ではない。





「団塊の世代の物語(3)」





「ふーん、そうやって突然ひとを訪ねるっている習慣はもう昔のことで、今の時代にはとっくに消えちゃったとおもっていたけど、こうやって思いがけずお会いすることになるっていうのは、なんだかいい感じだね。もうすっかり忘れていた感覚だったんだけど。あなたがこの僕に思いださせてくれるとはね」





「で、しょ」





英子はほんのすこし得意げに頬をゆるめた。意図して約束をとらなかったのにちがいなかった。





「で、ご次男と会社のことだったっけね。





でも、驚いたよ、あなたのご長男が長友君の子どもだったなんて」





「そう。あのときはああなる理由があったの。」





大木はその話には乗らなかった。





「ご次男の実父にあたる方が亡くなられて、その遺産のことでもめているんだったよね。





相手は実父にあたる方の亡くなられた配偶者との間に生まれた子どもと、それに広島興産ていう名の会社だったっけ」





弁護士の顔をして言葉をつづける。





「会社が相手かどうかはわからないわ。だって、私が代表取締役専務としてなにもかも取りしきってるんだから」





英子は広島弁をつかわない。そういえば、一階のロビーに迎えに行ってから一度も広島弁でしゃべっていないことに大木は気づいた。





「不思議だと思ってたんだ。斎藤峰夫氏は男性として妊娠させる能力がなかったんだよね。だから峰夫氏のご長男は血のつながりはないという話だった。それなのにどうしてあなたの子どもが峰夫氏の子どもなのか、って」





大木は英子が広島弁を使わないことには触れなかった。





しかし、英子の言葉づかいについては記憶があった。





小学生のころのこと、ひと夏大阪に行っていたという英子が急に大阪弁で喋り出したことがあったのだ。取りまきの女のこたちはすぐにそれにならった。





しばらしくしたらもとの広島弁に英子がもどり、まわりの女のこもそうなった。しかし、幼い大木の耳に響いたあの大阪弁はとても官能的だった気がする。そのときにはそんな表現をおもいついたわけではないが、仕事で大阪になんどもいくうちに、大阪の女性がつかう大阪弁が英子のつかった言葉をおもい出させ、その感覚には官能的という早熟な香りがふさわしい気がしたのだ。





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