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「令和2年の年賀状」団塊の世代の物語(4)

Japan In-depth / 2024年5月16日 21時0分

「令和2年の年賀状」団塊の世代の物語(4)




牛島信(弁護士・小説家・元検事)





【まとめ】





・自分というものを要約してみると、ほとんど存在してすらいなかったことに思い至って愕然とする。





・愉しむことのなかった世界がこの世にはたくさんあるのだろう。





・しかし、自分はこれでやっていくしかなかったろうし、それはそれでいい。





 





毎晩、漱石の『こころ』の朗読を聴きながら寝入ります。時にHemingwayの“A Moveable Feast”になることもあります。読書の灯を消した後のおまけの一刻、暗闇のなかでの愉しみです。





夕食後ひと眠りしてから起き上がり、一杯の紅茶を味わい、それから夜明け近くまで読書を書き物をして再び短い時間を眠る。そうした生活を改めました。少し早起きになってみると勤勉になった気がします。健康のためです。





でも、ふと人生を見失ってしまったような気がすることがあります。あの、真夜中の、独り切りの書斎での満ち足りた無限の時間。まあ、失ってみると、なんでも切なく懐かしくなるものなのでしょう。





そのうちに慣れます。考えてみれば、これまで何にでも慣れてきたのです。





さて、これから何に慣れるのか?





人生が、実は移動祝祭日の連続ではないことに、です。





少しでも世の中の役に立ち、自分の平穏な人生を噛みしめる。その合間、僅かの時間にも本を読み続けます。私は宇宙の果てに行き、ネアンデルタール人の滅亡の悲劇に立ち会い、経済の行方に思いを馳せます。そこには、すべてがあるのです。





「あの、真夜中の、独り切りの書斎での満ち足りた無限の時間。」





それを失っても「そのうちに慣れます」と考えていたとは、そう考えて済まし、澄ましこんでいたのだ。70歳とはそれほどに幼稚な年齢なのか。





私は、去年の9月の誕生日でどうやら還暦が来たなと感じ始めている。74歳で還暦とはなんとも奥手、ということになるのだろう。そういえば、私はなんでも奥手だった。





4年前、真夜中の書斎の時間が忽然と日常から消え去ってしまった事実。「そのうち慣れます」と書いてはいるが、実のとこと、それには未だ慣れてなぞいない。それどころか、反対に時間が無限でないことを思い知らされてばかりいる始末だ。76歳のときに『火の島』を出した石原慎太郎さんが言っている。





<書きたい長編小説の構想が七本もあるのに、人生の時間のストックが余りない。>(『我が師石原慎太郎』236頁)。





私もちかごろは、「宇宙の果て」も「ネアンデルタール人の滅亡の悲劇』も知ったことではない、もっと大切ななにかがあるのではないか、という気持ちになることがときおりある。





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