「令和6年の年賀状」団塊の世代の物語(8)
Japan In-depth / 2024年9月10日 21時0分
そう、未来の或る時点で私が過去をそう「創りだせば」、それが過去になってしまうのだから、そうなることはあり得ることだ。たとえばヘミングウェイがそうだった。
なんにしても重要なのは、過ぎてしまった時間ではない。これから来る時間、やがて過去になってしまうところの、しかし今の時点では未だ来てないところの未来の時間なのだ。
そこまでの日々には、どれほど甘美な人生の瞬間が待っていることか。
私の心はときめかずにはいない。どんな至福の瞬間が私を待っているのかという期待、胸の高鳴り。
しかし、或る意味では恐ろしい話だ。
私は22歳のときに要町にある鉄筋コンクリートのマンションの小さな部屋、1Kのバストイレ付の快適な区画に引っ越した。月2万9000円の家賃だった。それまでの6畳の木賃アパート暮らしで隣人の気配を常に感じていた生活からは、私にとってなんとも夢の空間への飛躍だった。
小岩に住んでいた郵便局に勤めているという若い夫婦が大家さんだった。その方の公団住宅にあるご自宅に伺い、その後は奥さんが更新のために私の1Kの小さな区画に見えたこともある。
何人かの大切な方を迎えた。初めて出前をしてくれた近くのABCという洋食屋の店員の方は、凄いね、6階なのにエレベータがないんだ、と弾んだ息でなかば感心してくれた。
私は結婚するまでの3年間、そこに住んでいた。いま思い返すとたったの3年。それからもう49年。鈴木さんという名の大家さんとは、ずっと年賀状を交換していた。今年も差し上げた。お二人からはいただいたのだったかどうか。
その間に過ぎた時間。そこでは司法試験も受けたのだった。カップヌードルにネギを刻んでたくさん入れ、さらに生卵をいれてかき混ぜる。スープまで飲んでしまえば完全食品だと一人納得がっていた。司法試験の日もその朝食をとった記憶がある。
しかし、あそこでの記憶は、死ぬ直前には、過去として回想されないかもしれない。
ヘミングウェイがフィッツジェラルのくれた『日はまた昇る』出版に際しての貴重な助言、そのおかげで素晴らしい作品に仕上がったことをすっかり忘れてしまったように。私にとっては大事な青春の輝きだったのに。
ちなみに冒頭の「毎日が新しい日です。」というのはヘミングウェイの言ったというEvery day is a new day.の訳である。彼の『老人と海』のなかに出てくる。
私には、『移動祝祭日』の末尾、本当は裕福だった最初の妻ハドリーとの生活について、「初めてのパリ生活は、こんな風に二人とも貧しくてもとても幸せだった。」と書かずにおれなかった理由がわかるような気がする。私はその部分を原文で29歳の11月11日に読んでいる。それは私が検事をしていたころで、豊かになりたいと願って弁護士に転職することに決めたころのことだ。
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