「令和6年の年賀状」団塊の世代の物語(8)
Japan In-depth / 2024年9月10日 21時0分
4回離婚し3回結婚したヘミングウェイにとって、その最初のパリでの生活ほどの倖せは、どんなことも、ノーベル賞すらも、もたらしてはくれなかった。であればこそ、自殺する直前のヘミングウェイが自分の60年の人生での最も大切な記憶として心に抱いていた「過去」がこれだった、ということなのだろう。
人はそのように考え、記憶し、死んでしまうもの。
団塊の世代の物語(8)
オークラの客室フロアへ通じるエレベータは、ホテル発行のカードがなければ動かない。
英子が鈍い金色のオークラ発行のカードをハンドバッグから取り出して、各フロアの数字の並んだ下の黒い接触部分にあて、紫色に小さく輝いたのを確認してから32階のボタンに触れた。
「ほー」
3209号の部屋にはいると、三津野は、照れ隠しにまっすぐに窓に歩み寄ってレースのカーテンを開けようとしてカーテンに触れた。「右のレースの書いてるボタンよ」と英子の声が後ろからした。言われたとおりにボタンを押すとかすかな音を立ててカーテンが上に巻き上げられていく。すこしずつ現れる窓の外に溢れるビルの光に大きく吸った息を吐いて挨拶をする。三津野のオフィスのあるビルも遠くに見えた。
「コーヒー淹れます?」
英子が三津野の背中に向けて声をかけながら近づき、左に並んだ。
「いや、いまはいらないな」
と答えてから、
「あそこ、あそこに僕いつもはいるんだ」とガラス越しに丸ビルを指さした。89年前、昭和10年に三津野の父親がサラリーマン生活を始めた場所でもある。もちろん建て替えまえの丸ビルである。未だ新丸ビルはなかったときのことだ。
英子が「何階?ここからあなたの部屋、見えるの?あなたの座ってる椅子、わかる?」とさらに寄り添う。身体ぜんたいが触れる。
「そりゃムリだよ。わかりっこないさ」
「残念」
英子は丸ビルの方角を見つめている。三津野はコーヒーテーブルの横にある肘掛け椅子に腰をおろすと、両脚を長く伸ばしてた。
「それより、僕の落語、続けさせて」
「聴きたい。続けて」
英子はそれだけ言うと、三津野の目のまえのソファに脚をそろえて腰かけた。真紅に近いハイヒールが燃えている。
「ありがとう」
伸ばしていた両脚を戻すと、三津野はハイヒールから視線を外し、英子の目をのぞき込みながら話をはじめた。
「戦後日本の歴史と構造そして復興と発展。それが現在のコーポレートガバナンスの必然性につながるという話になる。」
「いいわね」
英子は三津野を吸い込んでしまいそうなくらいに見つめたままだ。
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