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カーター大統領への追悼 その光と影

Japan In-depth / 2025年1月8日 13時27分

 


カーター大統領は中東問題に関してはイスラエルとエジプトの和平合意を実現して、それなりの成果をあげた。1979年1月の中国との国交樹立もその準備は共和党のニクソン政権時代からアレンジされていたとはいえ、鄧小平氏との合意文書に署名したのはカーター大統領だった。人権外交もその最大の弾圧国であるソ連や中国には手をつけずという感じだったが、その他の全体主義志向の諸国にはそれなりの警告を発した。


 


しかしカーター政権下ではまずアメリカ国内が停滞した。最大要因は経済の悪化だった。リベラル政策による極端な「大きな政府」策により企業の活動が抑えられた。政府支出の膨張で財政赤字が記録破りに増え、インフレ率が急上昇した。増税も大幅だった。失業も増えた。その結果、アメリカ全体がマレーズ(沈滞)と評される停滞の暗い雲に覆われた。


 


だがそれよりずっと深刻だったのはアメリカの対外関係の悪化だった。東西冷戦でのアメリカ側の顕著な後退、自由民主主義陣営全体の大幅な衰退だった。カーター氏は人権外交を唱えながらも、最大の敵のソ連に対しては一方的な善意といえる融和の姿勢をとり、国防費を削っていったのだ。軍備管理の対立案件でも善意を強調し、一方的に譲る動きをとった。


 


ソ連はアメリカのこの態度を後退や弱体とみて世界各地で攻勢に出た。その究極の動きが79年12月のアフガニスタン侵攻だった。ソ連の特殊部隊がアフガンの首都カブールに突入して、現職の最高指導者を殺害するという蛮行だった。ソ連軍はその後、アフガニスタン全土の軍事占領を目指した。東西冷戦の基本構図が一変した。カーター氏は「私のソ連に対する認識は誤っていた」と公式に言明した。


 


カーター外交でのもう一つの汚点は79年11月、イランのイスラム過激派にテヘランのアメリカ大使館員50人以上を拘束され、444日間も人質に取られるという失態だった。後ろ手を縛られ、目隠しをされたアメリカ人外交官が過激派に連行されてテレビカメラの前に立ち、自国の非難を言明させられるという米側にとっては屈辱的な光景が連日、放映された。しかもカーター大統領は米軍ヘリを秘密裏に送りこんで人質を救出するという作戦にも、完全に失敗した。



写真)目隠しをされて誘導される米国大使館の人質たち  イラン・テヘラン 1979年11月4日


出典)Bettmann by Getty images


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