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毎年新作があるのは当たり前? 第1作『のび太の恐竜』が作った日本アニメ映画の礎

マグミクス / 2020年8月1日 14時10分

毎年新作があるのは当たり前? 第1作『のび太の恐竜』が作った日本アニメ映画の礎

■見送られた『ドラえもん』幻の映画化企画

「ドラえもんが映画になる」

 ある日、自宅での食事中に藤子・F・不二雄先生がご家族に向かって告げました。仕事とプライベートをきっちりとわけていた藤子・F・不二雄先生のこの発言を、ご家族は自分のことのように喜んだそうです。
 
 記念すべき劇場版『ドラえもん』の第1作『ドラえもん のび太の恐竜(以下、のび太の恐竜)』が公開されたのは、1980年3月15日。前年4月に始まったテレビアニメシリーズの好評を受けての映画化でした。

 実は『のび太の恐竜』以前にも『ドラえもん』映画化の打診はあったものの、藤子・F・不二雄先生の意向で実現しなかったのです。その映画化の企画とは、「東映まんがまつり」でした。1970年代末「東映まんがまつり」では、子供向けの中編アニメや放送済みのテレビアニメを数本まとめて上映しており、それらのなかの1本として『ドラえもん』のテレビアニメ版を使いたいというものだったのです。

 毎週のように劇場用新作アニメが公開される昨今では実感できないかもしれませんが、当時、長編の新作劇場用アニメは一般的ではありませんでした。60年代後半から70年代にかけてテレビアニメが興隆し、最大手の東映動画(現:東映アニメーション)をはじめ制作スタジオは人員をそちらに注力するようになっていたのです。「宇宙戦艦ヤマト」シリーズや『銀河鉄道999』、「ルパン三世」シリーズなど、徐々に形成されつつあったアニメファン向けの作品はありましたが、児童から大人まで楽しめるようなファミリー向けの長編劇場アニメは特に希少な存在だったのです。

 そんななか藤子・F・不二雄先生は、「東映まんがまつり」の企画を断りました。連載開始からコミックス発売までの数年間、人気が低迷しても描き続けてきた『ドラえもん』。また映画といえば、学生時代に手製の幻灯機でマンガを映し出し、日本での公開前に『スター・ウォーズ』のパロディをふんだんに自作に登場させ、後にアシスタントの勉強のためと自らのレーザディスクのコレクションを貸し出すほど、思い入れの深い媒体でした。

 それらへのこだわりが、『ドラえもん』の劇場版を数本まとめて再上映されるテレビアニメの1本として済ませたくなかったのかもしれません。

■最初のシナリオは2時間半を超える力作

「東映まんがまつり」の企画がなくなった後、今度は小学館から『ドラえもん』の長編映画制作が提案されます。藤子・F・不二雄先生は、自分は短編作家だからと、それでも固辞しようとしましたが、シンエイ動画のプロデューサー・楠部三吉郎氏の後押しもあり、てんとう虫コミックス10巻に収録された「のび太の恐竜」(短編版)を膨らませて、長編映画の原作となるマンガを描くことをついに決心します。

 この「のび太の恐竜」は、1975年に「増刊少年サンデー」に掲載されたもので、30ページ弱とはいえど、学年誌での10ページ前後という通常の『ドラえもん』の制約から離れて描くことができたからか、藤子・F・不二雄先生自身かなり思い入れの強いエピソードだったそうです。

 1979年の夏、映画の制作にあたり、まず藤子・F・不二雄先生は、帝国ホテルに3日ほど泊まり込んで全体のプロットを作りあげます。先述したとおり、子供向けの劇場アニメといえば短編かテレビアニメの再編集が主だった時代です。そんななか完全新作の長編アニメ制作の土台を担うことになった藤子・F・不二雄先生の感じていたプレッシャーがいかほどのものか想像もできませんが、完成したシナリオは手書きで原稿用紙130枚、実際に映像化すると2時間半をこえる力作だったといいます。

 ちなみにシナリオの時点では本作にも出木杉英才が登場していて、のび太たちと冒険を繰り広げていましたが、絵コンテの段階で整理されたそうです。出木杉が『ドラえもん』のマンガ本編に登場したのが同年の夏だったこともあり、ファンの間では出木杉は映画『のび太の恐竜』のために作られたキャラクターなのではないかとささやかかれています。

■『のび太の恐竜』公開初日、藤子先生が見たものは…

『映画ドラえもん のび太の新恐竜』 (C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020

 1979年11月に正式に映画『のび太の恐竜』の制作が発表され、翌月に「月刊コロコロコミック」1月号から3か月連続で、大幅に加筆された長編版「のび太の恐竜」が掲載されました。後に毎年恒例の映画「ドラえもん」シリーズの原作となる大長編シリーズの始まりです。

 そして1980年3月15日、映画『のび太の恐竜』は公開の日を迎えます。併映はリバイバル上映の『モスラ対ゴジラ』。恐竜から連想しての組み合わせでしょうか、もしくはゴジラ映画と短編アニメを集めて上映していた東宝チャンピオンまつりの流れを汲んでのものかもしれません。

 長編版「のび太の恐竜」のアシスタントを担当したえびはら武司氏は、自作のなかで、藤子・F・不二雄先生は映画がヒットするかどうか誰よりも気にしていた、と記しています。

 公開当日、朝一番の上映回に間に合うように泊まりつけの京王プラザホテルから映画館へとおもむいた藤子・F・不二雄先生の瞳に映ったのは、『のび太の恐竜』のために館前に並んだ観客の列でした。それを見て安堵した藤子・F・不二雄先生は、そのままチケットを買って映画を鑑賞しながら、次回作の構想を練っていたそうです。

 結果、映画『のび太の恐竜』は観客動員数およそ320万人の大ヒット作となり、翌年から映画「ドラえもん」は『怪物くん』ほか藤子不二雄(当時)原作の新作アニメを同時上映とした「毎年恒例のシリーズ映画」となったのです。
 
 いまでこそ「クレヨンしんちゃん」「名探偵コナン」「ポケットモンスター」「ONE PIECE」など数多くの劇場アニメシリーズの新作が毎年、あるいは数年おきに公開され、邦画の興行成績に多大な貢献をしていますが、こうした「毎年恒例の劇場長編アニメシリーズ」の礎には『のび太の恐竜』の成功があると考えてよいでしょう。

「映画」であることに対する藤子・F・不二雄先生の熱意は、現在の日本アニメーション映画の興隆に強い影響を与えているのです。

(倉田雅弘)

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