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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第53回 【茂吉】印字部の誕生

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○オペレーターの育成

1931年 (昭和6) のはじめに、茂吉は王子梶原 (現・東京都北区堀船) の自宅隣の空き地に別棟を建てた。「写真植字機研究所」の看板を掲げた自宅は、茂吉がレンズ研究や原字制作に取り組んできた仕事場でもある。平凡な街並みの続く街のなかにある、倒れそうな板塀に囲まれた、決してりっぱではない一軒家。すぐ近くに荒川 (現・隅田川) の流れが見え、川向かいには広く開けた野菜畑、そのあいだにポツリポツリと工場が点在していた。約20坪の別棟を建てたのは自宅の西側。あいだに大きな柳の木をはさんで、すぐ隣だった。[注1]

この別棟で、茂吉は写真植字機の印字者 (打字者) の養成と、写植市場開発のための印字部門を始めた。印字者または打字者は、のちに「オペレーター」と呼ばれた仕事である。[注2]

1929~30年 (昭和4~5) にかけて共同、凸版、秀英舎、日清、精版の各印刷会社に納入した写真植字機は、機能が不十分であり、文字盤にも不備があるとの指摘を受けて、結局は各社でホコリをかぶることとなった。指摘は真摯に受け止めたものの、どこにもない初めての機械を現場に根づかせ、稼働させるには、単に機械を出荷するだけではだめなのではないかと茂吉はおもいはじめていた。機械を使いこなせるオペレーターを自社で育て、機械とともに彼らを納入先に行かせて、先方の仕事が軌道に乗るまで機械の面倒を見ることが必要なのではないか。そうかんがえたのが、印字部門設立のひとつめの動機だった。

もうひとつの動機は、写真植字機の効能を世に知らしめるために、まずは写真植字機研究所みずからがほかの印刷所や出版社から印字の注文を請け負い、写植機での実際の仕事をやってみせようとかんがえたことだ。どんなに言葉を尽くして写植機のすばらしさを語るより、「こういう仕事ができます」と実物を見せるほうがはるかに説得力があると茂吉はおもったのである。

おりしも、パラマウント映画社から外国映画の日本文サイドタイトルの注文もあり (本連載第52回「映画との邂逅」参照) 、写真植字機研究所で印字をする仕事が入りはじめたところだった。こうした実績は、写真植字機のPRにつながると同時に、なかなか売れない機械に代わって収入源となり、社員の生活の安定をはかる役割も果たした。[注3]

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