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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第10回 国民機「PC-9801」誕生、栄華を極めた国産パソコンと迫るDOS/V時代

マイナビニュース / 2025年1月21日 12時0分

また、シャープもエミュレーション方式によって98互換を実現したパソコンを発売。この頃から、PC-9800シリーズは、「国民機」と呼ばれるようになっていた。PC-9800シリーズが圧倒的なシェアを持ち、日本における標準パソコンとしての地位を確立したからこそ生まれた98互換機だったといえる。

国内パソコン市場で、常にリードしてきたNECが、初めて他社に先行を許したのがノートパソコンであった。

NECでは、ラップトップPCをさらに小型化したPCの開発計画を持っていたが、想定していた製品投入時期は1990年初めだった。しかし、1989年7月に東芝が、世界初のノートPCとなる「Dynabook J-3100 SS」を市場に投入。19万8000円という戦略的価格も加わり、大きな話題を集めたのだ。実際、その人気は高く、当初半年間の出荷台数は計画の2倍規模となる12万台に達したほどだった。PC-9800シリーズの「牙城」に、初めて噛みついたPCだったともいえる。

危機感を持ったNECは、社内に「3カ月間で対抗製品を開発せよ!」との号令をかけ、出荷日を11月24日に設定して、突貫工事での開発をスタートした。仕様検討および回路設計は8月17日から開始。開発チームの努力によって、過去に例がない短期間の開発を見事に成し遂げ、年末商戦投入前のタイミングに、予定通りに出荷してみせたのだ。

このとき、NECが用いたのが、「逆線表」という手法だ。従来は、仕様検討や回路設計、検証、部品調達、生産、出荷というように、順を追って線表が引かれるが、逆線表では出荷日が最優先の日程に位置づけられ、それにあわせて、逆流する形ですべての作業スケジュールを決定。これまでとは異なる方法で開発計画が立案された。しかも、それらの作業を、わずか約3カ月間に凝縮したのである。

短期間で、先行したDynabookをキャッチアップできた効果は大きかった。1989年11月に発売されたPC-9801Nは、1990年3月までの販売計画では5万台としていたが、結果としては10万台を出荷。さらに、1990年度ではPC-9800シリーズ全体の約3割を占める大ヒットモデルとなり、ノートパソコン市場での主導権はNECが握ることになったのである。

このとき、NECは、「98ノート」という名称を打ち出した。東芝のDynabookが「ブック」としたのとは一線を画すネーミングだ。これを命名したのが、当時、NECのパソコン事業を率いていた高山由氏(のちに専務取締役)だ。

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