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元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味

ニューズウィーク日本版 / 2018年8月15日 19時30分

エスリンガーの父親ジャック・ウォーナー(93)は、祖父が管理していた収容所にいた捕虜の1人だった。2年半前にニューヨーク支局に赴任した私は、知人を通してその存在を知っていたウォーナーに連絡を取り、翌年に彼の自宅を訪ねた。ウォーナーには祖父や日本への憎しみや敵意はまったく見られず、私は彼の4世代にわたる大家族から思いもかけないもてなしで迎えられ、その後も交流が続いている。



だがスターク親子はそれを知らない。その後の数分間は、これまで何度も見てきた光景と同じだった。祖父の話を切り出された相手は一様に、表情をこわばらせたまま固まる。驚いた様子のスタークの娘は、耳が悪くて聞き取れなかった父親にエスリンガーの言葉を繰り返す。すると、今度はスタークが目を大きく見開いてこちらを見た。エスリンガーがすかさず「父は、彼女のおじいさんは良い所長だったと言っている」と言うと、父娘の表情はいくらか和らいだ。そしてスタークは「君には、すべてを話す。私が知っているすべてを話す」と、怖い顔をして立ち上がった。私は自分の心も、みるみるうちに固まっていくのを感じていた。

元捕虜が語る70年の物語

スタークが米陸軍に入隊したのは41年3月、18歳のとき。1カ月後にはフィリピンに送られ、日本軍との戦闘を経て42年4月9日にバターン半島で捕虜になった。彼は「バターン死の行進」を歩いていない。当時マラリアで入院していたため、トラックでマニラ近郊のビリビッド収容所に移送されたのだ。移送中に「行進」のルートを通った際には、日本人に目を向けただけで銃剣で殺されかけたという。

ビリビッドの次に送られたのは、マニラの約120キロ北に位置するカバナツアン収容所。収容所正門のポールには切断された人の頭部がぶら下げられており、「逃亡を企てれば同じ目に遭う」という注意書きがあった。捕虜は10人で1つのグループを組まされ、1人が逃げれば残りの9人が処刑されるというルールが告げられた。そこでは、飢えや病気で毎日平均30人の捕虜が死んでいった。

捕虜時代のスタークは体重が44キロに減った COURTESY DARRELL STARK

その後、ミンダナオ島のダバオ収容所に移されたスタークは、44年に地獄船で日本に送られた。62日間かけて命からがら福岡県北九州市の門司港に着くと、三重県四日市市の捕虜収容所に送られ、紀州鉱山の鉱石を製錬する石原産業四日市工場で働かされた。

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