元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味
ニューズウィーク日本版 / 2018年8月15日 19時30分
四日市での生活は、フィリピン時代に比べればずっとましだった。休日はほとんどなく、毎日12時間働かされたが、「思いやりのある」日本人もいた。ある日、骨のように痩せ細っていたスタークは工場で働く日本人の弁当を盗んで食べてしまった。だが、その日本人はひとことも問い詰めないばかりか、翌日から弁当を2つ持ってきて、1つをスタークに手渡した。弁当の差し入れは、45年5月にスタークが富山市の収容所に移されるまで毎日続いた。スタークが富山で終戦を迎えたとき、体重は44キロにまで落ちていた。
娘のギルバートによれば、戦後PTSDに苦しめられていたスタークは、長い間子供たちに捕虜生活について語らなかったそうだ。だが79年にイランの米大使館で起きた人質事件を機に、数日間「まるで洪水のように」話し続けたという。捕らわれの身となり生死の境をさまよう人質の姿が、かつての自分と重なったのかもしれない。
忌まわしい記憶と付き合っていくためには、自分の身に起きたことを客観的に理解しようと努力するしかなかったのだろう。スタークは何度も「私は何事も大局的に捉えようと努めている」と言った。「われわれが経験したことの多くは、人々の残虐さのせいで起きたのではない。主な原因は物資の不足だった。だがそこに人々の残酷さが加わったとき、状況はさらに過酷になった」
残酷な仕打ちの1つが、捕虜を理不尽な理由で殴ること。「ハヤク」という日本語を理解して即座に反応しなければ、殴られる。捕虜の側にしてみれば、自分たちがなぜ殴られているのか、単に日本人が残虐だからなのか理由が分からない。スタークは「推測するしかないが」と前置きした上で、特にバターンにいた日本軍は米軍と戦った直後で、仲間を失うなどの経験をしていれば、敵に憎しみを抱くこともあっただろうと語った。
戦後もずっとPTSDに苦しめられてきたスタークだったが、14年10月、69年ぶりに彼の物語を大きく展開させる出来事が訪れる。日本外務省による元戦争捕虜の招聘事業で、娘のギルバートと共に訪日したのだ。日本行きを決意させたのは、弁当をくれた日本人が終戦5年目にスタークに書き送った手紙だった。
手紙の返事を書けなかったことをずっと後悔していたスタークは、その日本人を捜すために92歳で重い腰を上げた。訪日中には見つからなかったが、石原産業四日市工場から真摯な対応を受け、工場関係者が後日その人物の息子を捜し当ててくれた。それ以来、スタークは息子との文通を続けている。
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