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中国の「監視社会化」を考える(2)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 / 2018年12月21日 18時0分

このような議論をするとき重要なのが、全ての選択肢と情報を考慮したうえで合理的な判断を下す「エコノ(経済人)」と、限られた情報の下でしばしば非合理的な選択を行ってしまう「ヒューマン(普通の人)」の区別です。一言で言って普通の人にとって「選択の自由」はそれほどありがたいものではありません。普通の人が「自由」に振舞おうとしても、かならず感情や雰囲気、周りの人々の決定に左右されます。例えばカフェテリアでおいしそうだが高カロリーのメニューが最初に並べられれば、ついそれを手にとってしまいます。その結果、後でカロリーのとりすぎを後悔する、つまり自分にとって不利な選択をする事がよくあります。



そこで政府がなすべきことは、よく練られた制度設計によって普通の人の「選択しないという選択」をサポートしてあげることだというのが、セイラーやサンスティーンの立場です。つまり直接的な所得の再分配や市場にゆがみを与える規制といった「大きな政府」を批判するリバタリアニズム(自由至上主義)の立場と、あくまでも食堂のメニューの並べ替えや、社会保障制度に加入する際のデフォルトのオプションを工夫することによって、より望ましい選択のインセンティヴを与えよう、というパターナリズム(温情主義)の組み合わせが、彼等が依拠するリバタリアン・パターナリズムの立場だといっていいでしょう。このリバタリアン・パターナリズムこそ、先ほどみたような、法的な規制が不十分な下で人々の自分勝手かつ愚かな振る舞いを「そもそもできないようにする」という形での「公共性」のあり方を基礎付ける思想の一つだといえるでしょう。

ただ、リバタリアン・パターナリズムに対してはこれまでも、突き詰めていくと、民主主義の根幹に触れるような問題を含んでいるという批判がなされてきました。「民意の反映であればたとえ愚かな選択であっても受け入れる」のが民主主義の精神であるとするなら、リバタリアン・パターナリズムは明らかにそれとは相容れない契機を持つからです。例えば......本当に望ましいナッジやアーキテクチャを設計できるだけの人材を調達できる仕組みを、政府部門であれ、民間部門であれ持つことができるのでしょうか。また、仮にそれができたとして、人々の行動を左右するナッジやアーキテクチャの設計から排除され、自らはそれに従うだけになった人々との「不平等」は民主主義の基盤を掘り崩すのではないでしょうか。さらに、リバタリアン・パターナリズムは監視社会化とも密接なかかわりを持っています。より多くの市民にとって望ましいナッジを提示しようとするなら、市民の行動パターンや嗜好に関するデータを政府ができるだけ多く入手しておいたほうがよい、ということになります。そういった市民の個人情報を政府が入手し、それに基づいて政策が行われる、という社会のあり方は、言うまでもなく「監視社会」そのものだからです。

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