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百田尚樹はなぜ愛され、なぜ憎まれるのか――特集・百田尚樹現象(1)

ニューズウィーク日本版 / 2019年6月27日 17時0分

印象的だったのは、百田自身も大絶賛したデビュー作『永遠の0』の映画版について聞いたときだった。映画では肝心なシーンで、日頃から百田、そして右派がこだわって使う「大東亜戦争」ではなく、「太平洋戦争」という言葉が平然と使われている。なぜ、これだけ歴史観を主張していながら「太平洋戦争」を受け入れたのかと尋ねた。

「私は『大東亜戦争』を使いますよ。でも、言葉一つにこだわって多くの人に映画を見てもらえないほうが嫌なんですよ。映画は娯楽やからね。よくできたシナリオでしたから、OKですよ。私はこう見えて柔軟なんです」

この発言には、内心かなり驚いた。右派言論をリードしている「論客」だと思っていた人物が、柔らかい関西弁であっさりと「作家」としての正論を述べるのだ。

ツイッターから攻撃的な人物を想像していた私は正直、面食らっていた。印象は決して悪くなかった。百田は1人でやって来て、どんな質問にも全て答えた。一人称は「私」か「僕」で、横柄な態度は一切なく、冗談を連発し、常に笑いを取ろうとする善良な「大阪のおっちゃん」だった。普段から攻撃の的にしている朝日新聞について、こんなことも言っている。

「昔の朝日新聞、天声人語は好きやったなぁ。特に好きなのは深代惇郎(筆者注:朝日新聞の名物コラムニスト。75年に死去)やね。彼の天声人語はもう文学や。あんなコラムが書ける人は今の朝日におらんやろ」

往年の名コラムニストに敬意を払う百田の姿は、リベラル派が抱きがちな「粗雑な発言をする人物」というイメージからは明らかに乖離する「読書家」そのものだった。感覚は「ごく普通」で、ベストセラー作家然としたところは一切なかった。この「ごく普通」にこそ本質があったことを、私は後から知ることになる。

■原点は関西のテレビ番組

小説家・百田尚樹の誕生は06年8月、50歳にして太田出版から『永遠の0』を出版したときである。百田への取材で聞いたデビューまでの道のりは、「現代のおとぎ話」とも呼びたくなるようなものだった。

1956年、大阪市の下町・東淀川に生まれた百田は、大阪市職員だった父親から戦争の話を聞かされながら育ったという。物心がついた頃の大阪には、戦争の傷痕が至る所にあった。遊び場だった淀川にあった通称「爆弾池」は、米軍が落とした爆弾の跡に水がたまってできたものだった。親族が集まれば「あの戦争で、どこにいたか」「大阪の空襲はすごかった」という話がしょっちゅう話題に上る。これが百田の原体験だ。

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