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【逆説の日本史】「シベリア出兵」が多くの日本人にとって「影が薄い」のはなぜか?

NEWSポストセブン / 2024年10月31日 11時15分

 そこで山県有朋を中心とした強硬派の意見がとおり、日本は文字どおり「清水の舞台を飛び降りる」ようなつもりで日露戦争に踏み切った。唯一のアドバンテージは、日英同盟が結ばれていたのでイギリスの援助が期待できることだった。もっともそれはあくまで軍事以外の応援にとどまるものであって、イギリスは日本のためにロシアと直接戦うつもりは毛頭無かったし、その余力も無かった。

 そして、誰もが日本の負けを予想したこの戦いに、日本は見事に勝った。それがいかに巧妙に計算された勝利であったかは前出の第二十六巻に詳述したところだが、その結果日本は樺太の南半分と東清鉄道の一部の租借権を得ることができた。これを日本は南満洲鉄道(略称「満鉄」)と改称し、日韓併合によって朝鮮半島も日本の領土として、なんとかロシアに対抗していこうとした。

 しかし、それでもあらためて地図をご覧いただきたい。大日本帝国のいかに「ひ弱」なことか。ロシアはあまりにも巨大である。それに「帝国主義の先輩」である欧米列強は、たとえばイギリスが香港を、ドイツが膠州湾を九十九年という長期にわたって「租借」していたが、これに対して日本が確立した利権の中国への返還期限はあまりにも短い。満鉄にしても、期限が来たら中国に返還せねばならないのだ。

 そのときが来たらロシアは再び中国に迫って満鉄を「手に入れる」かもしれない。そうなれば、日本は再びロシアと対峙しなければならない。つまり、当時の日本人は軍部だけで無く民間人に至るまで、「なんとかしなければ」と考えていたのだ。あの、強引で性急で結果的に中国人の深い恨みを買ってしまった対華二十一箇条の要求がなされたのも、背景にはこれがある。なんとかせねば「十万の英霊」の死を無駄にしてしまうという「あせり」が、租借期限延長を中国に強要する形になった。しかし、ロシアの脅威は依然として残った。

ロシア内乱は「天佑」

 さて、そうした前提で考えていただきたい。その強大な敵ロシアで内乱が起こったのだ。革命と言っても、最初は必ず内乱の形を取る。反対派を壊滅させるまでは、革命成功とは言えない。しかしロシアはフランスと違って古い形の帝国だったし、皇帝制を支持し共産主義思想を認めない保守派が少なからずいる。しかも、革命はバイカル湖以西のヨーロッパ側で起こった。

 つまり、保守派(白軍)は反対勢力を結集しやすいという強味があった。もともとウラル山脈によって東西分断されていた国家だから、西と東に分かれることはそれほど困難では無い。少なくとも、フランスやアメリカのような国土とは地勢的条件がまったく違う。

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