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親が6人でも夏目漱石がグレなかった理由

プレジデントオンライン / 2019年1月15日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/kudou)

親からの愛情が得られなかったとき、それを埋めるものは何か。『吾輩は猫である』などの著作で知られる夏目漱石は、生まれてすぐ里子に出され、合計“6人”の親がいる複雑な環境で育った。しかし非行に走ることなく文学者となった。諸富祥彦明治大学教授はその理由を、「親の愛に飢えていた漱石を救ったのは、志を同じくする友人たちとの交流だった」と読み解く――。

※本稿は、諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■生まれてすぐ里子に出された漱石

放任主義の親の子どもが非行に走ってしまうというのは、いまも昔もよく聞く話です。子どものやりたいように任せているようでありながら、じつはそこに「親の愛」は介在していない、そんなようなケースです。

では、親からの愛情が足りないと、いったいどんな子どもに育つのか? 非行に走った例ではなく、そこから“立ち直り”を見せた国民的作家・夏目漱石のケースをここで見てみましょう。

夏目漱石といえば、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』『硝子戸の中』『夢十夜』など、寡作ながら100年以上も読み継がれている傑作を著した“文豪”として知られます。しかし、彼の生誕から少年時代をひも解いてみると、じつは「両親からの愛情に飢えていた」ことがわかってきます。

夏目漱石(当時の名は金之助)は、旧暦の慶應3年1月5日(1867年2月9日)、江戸は牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれます。父・夏目小兵衛直克は町名主という権力者。漱石は、父・小兵衛51歳、母・千枝42歳のときの8番目の子ということもあって、やがて里子に出されてしまいました。

■3つの家をたらい回しにされた

半年ないし1年後、里子に出された先の古道具屋で邪険に扱われたとのことで生家に出戻った漱石でしたが、再び養子として、新宿の名主・塩原昌之助のもとへ出されてしまいます。幼少期の漱石は、いわば、居場所がどこにもない「余所者(よそもの)」だったのです。

しかも、昌之助が愛人をつくり、妻と離婚することになったため、漱石はまたもや実家に逆戻り。実家には、それまで「祖父母」だと教えられていた実父と実母が待っていました。

2人が実の両親だと教えてくれたのは、実家に使われていたお手伝いの女中でした。漱石はそのときのことについて、こう記しています。

「私はその時ただ『誰にも云(い)わないよ』と云ったぎりだったが、心の中(うち)ではたいへん嬉(うれ)しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、たんに下女が私に親切だったからの嬉しさであった」(『硝子戸の中』)

■学費だけは出してくれた父親

漱石のこの言葉からは、世間に対する冷めた感情を読み取ることができます。彼の上にはたくさんの兄姉がいましたが、姉たちは母が異なり、兄たちも歳が離れています。自分に親身になってくれる人は、実家には誰もいませんでした。でも唯一、母だけは漱石のことを温かく見守ってくれていたようで、後年まで、彼は母の優しさを脳裏に刻んでいたといいます。

諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)

その母は、1881(明治14)年、55歳で亡くなりました。漱石が14歳のときのことでした。

ではその後、自分に「愛情」を示してくれていた母親を失った漱石が、道を外した人生を送っていたのかといえば、そんなことはありませんでした。文学の道を志す彼の同行者となったのは、東京大学予備門予科に入学した後に出会った友人たちであり、実父でした。実父は、漱石が家に戻ってきたことは歓迎していなかったようですが、夏目家としての世間体も少なからずあったのかもしれません、学問を修めるためにかかる費用については出資してくれていたようです。

■バンカラな友人たちとの交流で立ち直る

当時の予備門の学生は、いまでいえば17、18歳の青年。けっして大人とはいえない生意気な年頃です。しかし、そんなバンカラな友人たちとの交流で、「親の愛」を十分得られずに育った漱石の“心のすき間”が埋まり、勉強にも集中できるようになったのでした。ただ、ずっと首席で通していたという漱石が2年に上がるときに落第したことも、彼自身に大きな衝撃を与えたようで、漱石はのちの作品の中でこう振り返っています。

「もしその時落第せず、ただ誤魔化してばかり通ってきたら今ごろはどんな者になっていたか知れないと思う」(『落第』)

漱石は、友人たちとの交わりを通じて素直な性格に“立ち直った”頃、友人・米山保三郎のアドバイスによって文学の道を志すようになり、彼らと同じく予備門で学んでいた正岡子規(本名・常規)とは、まさに親友と呼べるような付き合いをすることになるのです。

■子育てに活かしたい「漱石の教え」

以上のように、かの文豪・夏目漱石は、親からあまり手をかけてもらえない子ども時代をすごしました。孤独にも思える漱石の幼少時代、彼を救ったのは仲間たちでした。多感な17、18歳のとき、漱石はバンカラな友人たちとつるむことで、心が癒された。当時の多感な彼の心を支えたのは、家族ではなく友人たちだったのです。

「親の愛」に飢えていた漱石の場合、友人たちとの交流で、そのさびしさをまぎらわしていたわけですが、子どもにとって「親と楽しくすごす時間」はとても大切です。

親御さんの中には、仕事でひたすら忙しく、子どもと接する時間がなさすぎるという方もおられると思います。生活をかけ、必死に仕事に取り組んでいるから子どもと遊ぶ時間なんてなかなか取れない、そんな親御さんもいらっしゃるでしょう。

また、いまは女性も仕事をバリバリやって当たり前の時代。お母さん方も、子どもと接する時間があまり持てないということも少なくないはずです。

■1日30分でいいから子どもと2人きりになる

そんなケースに出合ったとき、教育カウンセラーである私は、「1日30分でもいいので、子どもと2人きりになる時間をつくってください」と親御さんにお願いすることがよくあります。

夏目漱石の生い立ちから私たちが学び取れる「子育てのポイント」は、親と子のふれあいが、子どもの豊かな心を育む“基礎”になるということ。漱石の場合、幸いにも友人たちとの交流が彼を救うことになったわけですが、子育て世代の親たるもの、どんな形でもいい、子どもと一緒にすごすことの大切さを、常に念頭におくことが大切なのです。

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諸富祥彦
明治大学文学部教授
1963年、福岡県生まれ。教育学博士。日本トランスパーソナル学会会長。臨床心理士。上級教育カウンセラー。1992年、筑波大学大学院博士課程修了後、千葉大学教育学部助教授等を経て、現職。おもな著書は、『男の子の育て方』『女の子の育て方』『ひとりっ子の育て方』(以上、WAVE出版)、『子育ての教科書』(幻冬舎)など多数。[ホームページ]https://morotomi.net/

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(明治大学文学部教授 諸富 祥彦 写真=iStock.com)

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