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均等法後も会社で女性蔑視が横行した理由

プレジデントオンライン / 2019年4月27日 6時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/itakayuki)

1986年の男女雇用機会均等法施行をきっかけに、女性活躍が謳われ続けた平成の時代。新し時代が始まるのを目前に、その30年間を一気に振り返る「図解年表」にまとめました。

■平成「日本の女性活躍」30年史

平成が始まった1989年からの30年間、ずっと「女性の時代」と繰り返し謳われてきた。確かに今、女性を取り巻く環境は平成元年から比べて大きく変化した。しかし、これは男性中心につくられた社会の中で、多くの女性が闘ってきた結果にほかならない。この30年間の変遷を先駆者3人のキャリアから見てみよう。

「私は86年に就職活動をしていた、まさしく男女雇用機会均等法(以下、均等法)第1世代。それまで、女性は短大出身でないと就職が不利といわれていましたが、この頃から四年制大学に女性向けの求人が多く来るようになり、法整備の効果を感じました。でも、同じ文系でも男性は6月頃に内定をもらっているのに、私は一向に決まらず焦りました。それで、コンピュータが何なのかよくわかりもしないまま日本IBMの専門職採用試験を受けるも撃沈。でも当時、就職に有利といわれていた秘書検定2級を持っていたので、秘書職として採用されました」(梅田恵さん)

■平成初期にはカジテツ女子

国連で採択された女子差別撤廃条約(85年批准)を受けて誕生した均等法(86年施行)。国際世論に押されての法整備とはいえ、これをきっかけに女性登用の受け皿が徐々につくられていった。この頃、女性の就職は結婚までの腰掛け、嫁入り前の箔(はく)づけと見られ、実際に有名大学を卒業しても、職業“カジテツ(家事手伝い)”、花嫁修業中という女性も少なくなかった。しかしその一方で、バブル経済を背景に、アッシー君、ミツグ君を従え、「いけいけドンドン」、仕事も遊びもとことん楽しむ女性や、海外旅行ブームの先に起こったOLの留学ブームで海外のジェンダーレスな社会を目の当たりにし、キャリアに目覚める女性も現れるようになっていた。

■男性に悪気があったわけじゃない

「薬科大学卒業後、薬剤師や研究職ではなく、外を回る仕事がしたくてMR(医薬情報担当者/当時はプロパー)をめざし、製薬メーカーへの就職を希望。でも、就職活動を始めると、製薬メーカーの女性MR採用枠が極端に少ないことを知って愕然(がくぜん)。しかもほとんどが外資系で、国内企業では大塚製薬と数社のみ。同社は、それまで新卒女性数人しか採用していなかったのですが、90年当時の社長が女性活用を謳い、20人の大量採用をした年でした」(西山和枝さん)

平成初頭は、バブル経済の終焉(しゅうえん)を前に日本経済全盛期。日本企業で働くことこそステイタスだった。当時の外資系企業日本支社の施設設備は小規模で、外資系に就職することは“負け組”を意味していた。だが、外資系の代表格、日本IBMに関していえば、37年の日本法人創業時から技術専門職で女性採用を行い、60年代後半から四大卒女性を本格採用していたため、95年にいち早く女性役員を生み出すことができたのだ。

「もともと日本IBMは、コンピュータが一般的でなかった時代、優秀な男性社員の獲得が難しかったため、ジェンダーフリーで社員を募集してきました。米国では30年代から、日本では60年代から一貫して、性別・国籍・障害の有無にかかわらず同一職種・同一賃金。おかげで、多少女性差別してくれてもいいのにと思うほど、男性と同等に猛烈に働くことができました(笑)」(梅田さん)

それは外資系ならではの良さで、日本企業ではそうはいかなかった。

「84年にJUKI入社。当時の男性は、女性の幸せは結婚と育児だと純粋に信じていました。それが差別だなんて思っていませんし、その気持ちに悪気はないんです。それは男性だけでなく、女性の意識もそう。私自身、結婚退職が当たり前だと思っていたし、私もそれを前提に入社しましたから」(芳野友子さん)

■昭和的思考からの脱却を

女性の総合職・一般職採用が始まったとはいえ、職場での女性の位置づけは、まだまだお茶くみ&雑用係とされ、入社したては「○○ちゃん」とかわいがられ、長く勤めると「お局さま」と煙たがられた。

「MR採用3期生ですが、周りの男性営業マンや取引先の医師は、女性MRとの付き合い方がわからず戸惑っていました。彼らにとって、女性は宇宙人のようなもの。『何でここに来たの? 腰掛け?』と真顔で質問されました(笑)。MRとして医局を訪問した際も、当然のように私がお茶係。他メーカーの男性社員がいる席でもそう。『女性だから当たり前』という雰囲気なんですね。それに疑問を感じたこともありませんでした。でも、ある女医さんに『それは女性の仕事じゃなくて、若い子の仕事でしょ』と声を掛けられ、ハッとしました」(西山さん)

法整備が進んでも、まだまだ人々の意識は昭和のまま。女性も恋愛至上主義で、人気テレビドラマのような人生を手本にする女性も多かった。平成初期は、企業の受け入れ体制よりも何よりも、人々の意識改革が必要な時代だったのだ。

「88年に社内の労働組合中央執行委員に任命されてから、育児休業制度の導入を会社に要求したのですが、『それは女性のわがままだよ』と一蹴されてしまいました。とても悔しかった。でも、それが現実。その後、女性の声を集め、少しずつ根回しをし、育児休業法制定の2年前に制度を導入。利用者第1号となった女性は『育児休業できるなら、仕事を辞める理由がないよね』と。その後、結婚退職はもちろん、子どもができても仕事を辞める女性は少なくなりました」(芳野さん)

92年、それまで多数派だった専業主婦世帯数と共働き世帯数が逆転。この頃の女性の平均初婚年齢は25.9歳(90年/厚労省調べ)。25歳をすぎた未婚女性は“売れ残りのクリスマスケーキ”と呼ばれたが、経済的に自立し、人生を楽しむ女性は確実に増えており、同年、高齢出産の定義が30歳以上から35歳以上の初産婦に引き上げられるなど、理想と現実のギャップに人々が気づき始めた。

「50代以上の男性社員の妻は専業主婦が多いのですが、40代以下では共働きが多数派になり、子育て応援セミナーを開催すると30代男性が多く参加するように。時代の移り変わりを感じます」(梅田さん)

2000年代に入ると、均等法第1世代の女性たちが企業の重要部門を担い、活躍が目立つように。すると、「30代・非婚・子なし」を“負け犬”と定義するブームが起こる。該当するのは第1世代の女性たち。

「責任も大きくなり、ますます仕事が楽しくなってきた30歳の頃、当時お付き合いしていた男性に『俺と仕事とどっちが大事?』と詰め寄られました。それで、私は仕事を取りましたけど(笑)」(梅田さん)

■女性負担は変らず共働きに

05年、合計特殊出生率が過去最低の1.26に。同年の平均初婚年齢は男29.8歳/女28歳、第1子出生時の母の平均年齢は29.1歳となり、晩婚化・少子化傾向はますます進んだ。しかしこの頃は、仕事と家庭を両立するためのサポート体制が今ほど整っておらず、女性は常に選択を迫られていた。“男は外で働き、女は家庭を守る”は専業主婦志向の「昭和型夫婦」だが、時代が変わり「平成型夫婦」となっても昭和的思考を引きずり、女性の負担は大きいまま共働き志向となっただけだった。

「MRは仕事量が多く、朝早くから卸業者と打ち合わせ、夜は診療が終わってから医師と面談。仕事と家庭の両立は難しく、同期20人のうち、残っているのは6人。でも、今思えば、私たちの考え方も昭和的で男性的でした。男性と同じように働こうと思っていましたから。ただ、女性には好不調のリズムがある。人によっては生理や更年期症状など女性特有の健康問題でキャリアを諦める人も少なくありません。女性の労働生産性を上げるにはヘルスリテラシーを向上し、セルフケアを行っていくことが大事だと、年齢を重ねた今気づいたんです」(西山さん)

オリンピックのすべての競技で女子種目が設けられたのは12年のロンドン大会からだが、それに先駆け、04年のアテネ大会で日本人女性の金メダル獲得数が男性を上回るようになった。その理由のひとつとして、女性の生理を科学し、ピルでコントロールするなど、体調管理を始めたことが挙げられる。

■社会に根づく性別役割分担

「男女共同参画が謳われて20年近く経った今も、『男は仕事、女は家事・育児』といった性別役割分担の意識が社会に根強く残っています。まず、その意識を取り除いていくことが大切。そのためには世の中の仕組みを変えることから始めるべきです。以前、JUKI社内で育休制度を取り入れると、私たちも意外だったのですが、育休の利用に男性が手を挙げましたからね」(芳野さん)

平成初期~中期、キャリアを継続するには結婚・出産を諦めるか、スーパーウーマンになるかしかなかった。しかし、平成後期になると法整備はもちろん、人々の意識も徐々に男女協働へと変わり始めた。

「バブル崩壊後の10年間は“失われた10年”と呼ばれますが、女性にとっては追い風が吹いた10年なんです。その後の10年間はセクハラやパワハラなどの禁止項目が増え、女性の地位が向上した時代。でも、最近の10年間では、女性の問題が見えにくくなってきています。以前は、働く機会の平等を求めていましたが、今は結果の平等を求めなければ真の男女平等社会にはならないと思うのです。男女平等に成長の機会が与えられているか、コース別管理を隠れみのに女性をふるい落としていないかなど、数値化できない問題の洗い出しが今後の課題です」(芳野さん)

問題はまだあるが、働く女性を取り巻く環境は大きく前進した。18年には男女候補者均等法が成立。政治への女性参加が増えれば、女性の働き方や労働環境はもっと変わるだろう。しかし、平成の30年が経ってもまだ、管理職になりたい女性は5割前後と、男性の9割に比べると低いのが現実だ。会社側はもちろん、働く女性自身の中に残るアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)=性別役割分担意識をなくすことが、新たな時代をつくる一歩となる。

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梅田 恵(うめだ・めぐみ)
日本アイ・ビー・エム 人事・ダイバーシティ企画部長
1987年入社。広報担当課長、人事広報担当部長を経て、2008年から現職。企業内保育園設立プロジェクトを立ち上げるなど、ダイバーシティ活動多数。
 

西山和枝(にしやま・かずえ)
大塚製薬 ニュートラシューティカルズ事業部・女性の健康推進プロジェクトリーダー
女性の健康とWLB推進員。1990年医薬品事業部にMRとして入社。2003年同部課長に昇格。15年から現職。
 

芳野友子(よしの・ともこ)
日本労働組合総連合会 副会長
1984年JUKI入社。88年JUKI内労働組合中央執行委員に。ゼンキン連合(現JAM)などを経て2015年から現職。男女雇用機会均等法制定や育児休業法制定運動に参加。
 

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■▼平成「日本の女性活躍」30年史

(ライター 江藤 誌惠 撮影=田子芙蓉 写真=iStock.com)

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