東大総長も出身「名門・武蔵」の自由すぎる校風

プレジデントオンライン / 2019年8月26日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/noipornpan

開成、麻布と並ぶ「進学校の御三家」として名高い武蔵(東京・練馬区)。ジャーナリストの永井隆氏は「OBたちの進む道のバラエティの豊富さでは他に抜きんでている」という。卒業生への取材から、その秘密に迫る――。

※本稿は、永井隆著『名門高校はここが違う』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■宿題をやるかは生徒の自由

「重厚感ある大講堂や校舎と、全国トップクラスの広さを誇るグラウンド、制服も校則すらもなく、自由でのんびりしていた。とても青春を謳歌させてもらいましたね」

こう語るのは現在、早稲田大学総長を務める田中愛治氏だ。田中氏は中高一貫校の武蔵中学に1964年に入学し、武蔵高校を70年に卒業している。その後に早稲田大学に入学し、オハイオ州立大学で政治学の博士号を取得。その後、いくつかの大学で教鞭を執った。

「武蔵高校は生徒だけでなく教員も個性的で、倫理学者の和辻哲郎の息子さんが道徳を教えていたり、哲学者・西田幾多郎のお孫さんも教員としていらっしゃった。結構な量の宿題が出されるのですが、それをやるか否かは各自に委ねられ、しかし授業は淡々と進むので、ちゃんと予習していないと、数学などは置いてきぼりにされてしまうのです(笑)」

■生徒の9割が何かしらのクラブに所属している

自由放任でハイレベルな授業が展開される様は、さながら大学のようである。そして武蔵の特徴として、部活が盛んであることを挙げる。「高校は1学年160人ですが、生徒の9割が何かしらのクラブに所属していて、私は陸上部でした。バスケットボール部は強豪で、インターハイで3連覇したこともあります」。

主に短距離走で活躍した田中氏は、高校2年時には主将も務めた。

「中高一貫なので、中1から高2までが一緒に練習します。先輩からのきつい練習を引き継ぎ、私も厳しいメニューを作成し、仲間たちとこなしました。200メートルのトラックを何周もダッシュしたり。苦しさのあまり吐くこともありました。練習後は、学校の前のパン屋でピーナッツバターを塗ったコッペパンを食べるのがならいで、コーラは高校生になれば飲めるけれど、中学生はダメという暗黙のルールがあった。なんとも牧歌的です(笑)」

毎年4月、名門私立の武蔵・麻布・開成高校の“御三家”で、各運動部の対抗戦が開催される。陸上部は麻布との2校対決だったが(その後、8校の対抗戦に拡大)、田中氏もこの対抗戦に向けて励んだそうだ。

■学生運動を理由にした退学や停学はなし

70年安保を目前にしていた当時、日本は政治の季節を迎えていた。大学はもちろん、都内の進歩的な高校にも学生運動の風が吹き込み、デモや政治活動に参加する生徒は珍しくなかった。武蔵高校でも学生運動に参加する生徒は多く、田中氏もその一人だったという。学生運動をテーマにした小説『されどわれらが日々─』(64年に芥川賞受賞)がベストセラーになり、当時は愛読する高校生が多かった。本作を執筆した柴田翔氏(後に東京大学名誉教授)も武蔵高OBである。

高校3年のある日、田中氏がデモに参加していると、合法デモだったにもかかわらず、東銀座で機動隊員に囲まれてしまう。逮捕されることも覚悟したとたんに腹が据わって冷静になった。次の瞬間、隊列が崩れて小さな退路ができる。日頃、陸上部で鍛えていた田中氏はガードレールを跳び越えて逃走した。

ただし、途中でズボンが破れてしまい、これを見つけた母、そして父・清玄氏に叱られてしまう。父は「命をかけて国を変える気概があるならやってもいいが、それほどの覚悟もないのであれば学生運動など止(や)めてしまえ。俺は命がけでやった」と一喝した。

武蔵高校の教員たちは学生運動についても鷹揚(おうよう)だった。校内には学生運動の各派に属する生徒がいたが、「先生はデモに向かう生徒を一度は諫(いさ)めますが、それ以上は言わなかった。生徒の自主性を尊重してくれたのですね。最後は『気をつけろよ』と声をかけ、学生運動を理由に退学や停学になることもありませんでした」。生徒と教員のお互いの信頼関係が垣間見られるエピソードである。

■設立当時は規律の厳しいスパルタ校だった

ここで学校の歴史を振り返りたい。武蔵高等学校中学校は1922年(大正10年)に、根津財閥(東武鉄道、東武百貨店などを創設・経営)の初代総帥・根津嘉一郎によって7年制の旧制中高一貫校として設立された。当時の学制では本来、中学5年・高校3年であったが、1918年の第二次高等学校令によってイギリスのパブリックスクールを模した中高一貫の7年制の設立が許されることとなり、官立の東京高校(後に東京大学)のほか、私立では武蔵、甲南、成蹊、成城の4校が創設された。当時の経済人の教育熱も強く、彼らはエリート養成校としてこれら7年制を支援し、子息を入学させた。武蔵も設立当初は、根津総帥や初代校長の一木(いちき)喜徳郎(文部大臣など歴任)の方針により、エリートを養成すべく、スパルタ教育を施し、生徒には野球を禁止し、成績が悪ければ落第・退学させることも辞さなかった。

■「答えのない問題」に立ち向かう人材を育成

建学の精神、理想の人物像として掲げる「三理想」があり、1.東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、2.世界に雄飛するにたえる人物、3.自ら調べ自ら考える力ある人物、とする。創立前に欧米視察をした一木校長が、日本の文明的遅れに危機感を抱き、世界に互する人物を作ろうと掲げたものだった。

戦後に学校教育法が施行され、48年に新制の武蔵高校が、49年に武蔵中学が発足。今に通じる自由な校風へと転換していく。なお、2000年には高校入試を廃止し、完全中高一貫校となった。

田中氏はこれからの教育に、武蔵の教えは普遍性があるのではないかと語る。「これからの日本は、答えのない問題に立ち向かえる人材を必要としています。武蔵中学の入試は、明確な答えのない、考えさせる問題が出題されることで有名ですが、これからの人材育成に適しているのではないでしょうか。これは早稲田大学の教育に通じることで、大学でも自由な校風の中、多様性ある人材を育てたい」と語る。

奇しくも、現在の東京大学総長の五神真(ごのかみ・まこと)氏(76年卒)、東京工業大学前学長の三島良直氏(68年卒)も武蔵OBで、明治学院大学学長の松原康雄氏は田中氏と同期だ。田中氏は、「本当の学問や現実社会には正解のない問題が多い。武蔵中学・高校で自ら考える力を養ったことは、教育者として生きる上でも重要だったと思います」と語ってくれた。

■大手塾でE判定でも合格できた謎

ヒップホップミュージシャンとして活躍するダースレイダー氏(本名・和田礼。96年卒)は、1977年にフランス・パリで生まれ、その後ロンドンで暮らす。帰国したのは10歳の時だ。ちなみに父親は朝日新聞ヨーロッパ総局長などを歴任し、テレビ朝日系「ニュースステーション」でコメンテーターも務めた和田俊氏である。

帰国後に転入した私立小学校では伸び伸びと過ごせたが、小学5年時に「いずれ大学に通うだろうし、どうせ行くならトップの東京大学を目指したい」と思ったという。東大に行くとなると、それなりの進学校を目指さなければならない。親に聞けば、“御三家”と呼ばれる中高一貫校の開成、麻布、武蔵が有利だという。文化祭など学校開放日に見て回った結果、「制服がない」武蔵中学に惹(ひ)かれた。しかしその夏休みに大手学習塾の模試を受けてみるも、その結果は、「合格の可能性がほとんどないE判定で入塾すら叶(かな)わなかった。小5の夏から中学受験の準備をするなど遅すぎてありえないのです」。

それでも別の塾に通って勉強に励み、武蔵ならではの試験によって合格を果たす。

■「E判定」でも光るものがあれば合格できる

「論述問題が多いのですが、ここで信長、秀吉、家康の人物比較を書き、これが評価されたようでした。僕は『信長の野望』というゲームの大ファンで、戦国武将について誰よりも詳しかったのです」。実際、武蔵中学の入試問題では中学生に解答できるのかと思うような内容が出題される。2018年度の社会科では江戸時代の日本人と銅のかかわりについての記述を読み、知識だけでは答えられない、思考力を問う問題が並んでいた。

入学してみると、「僕だけではなく、E判定だった塾の落ちこぼれが何人かいました。偏差値では難関私立に適わなくても、何か光るものがあれば、武蔵の試験では一発大逆転もありえる。その結果か、武蔵の生徒はバラエティに富んでいました」。

そんな入試を潜(くぐ)り抜けてきた生徒たちである。自らを落ちこぼれという和田氏も、「帰国子女」という絶対的アドバンテージを持つ一人なのである。10歳までイギリスで過ごした和田氏の英語力はもはやネイティブと同じ。英語の授業で、教師の発音の間違いを何度も指摘していると、「和田、お前はもう授業に出なくていい。定期試験だけ受ければいいから」と、教師から授業免除が言い渡された。

「この緩さが武蔵らしいというか」と笑う和田氏が時間を潰したのは、極太ナポリタンで学生から親しまれた喫茶店「トキ」、そしてゲームセンター「上高地」だった。いずれも西武池袋線江古田駅の近くにある。「ただし、池袋からやって来る不良にカツアゲされないよう、気をつけなければならなかった」。武蔵の生徒には裕福な家庭の子息が多く、不良たちの格好の餌食になっていたのだ。

■「成績はサイコロで決めてやる」

生物の教師は、いつも酒臭かった。挙げ句に、「どうせ俺の授業など聴かないだろう。成績はサイコロで決めてやる」と投げやりに授業を進めた。日本史の教師は、江戸時代の農民一揆を研究していたため、授業のほとんどは農民一揆について事細かに解説がなされた。

文部省の学習指導要領はもちろん、大学受験にもまったく沿わない内容だ。「東大を目指してコツコツ勉強する生徒もいるので、彼らは授業を聴かずに参考書を開いて“内職”していました。僕はそんな授業こそ面白くて熱心に聴いていましたけどね」。

また、別の社会科教師は、「現実社会に触れてこその社会」と言い、早朝に漁港に集合させ、生徒たちを蛸(タコ)釣り漁船に乗せた。そして「蛸(タコ)を釣った者に単位を与える」ということを平然と行っていた。

■生徒の弁当を食べて、「俺が食べたと伝えろ」

アメリカ帰りの英語教師はいつも教卓に腰掛け、一番前に座る生徒の机の上に足を乗せて授業を行っていた。この授業は選択科目だったため、取っていない生徒もいる。すると教師は、「俺の授業を取らないとこういうことになる」と、不在の生徒の机から弁当を取り出し、「俺が食べたと伝えておけ」と言い、本当に食べてしまったのだ。

「ありえない教師ですよね(笑)。けれど授業のレベルは高かったし、何よりその破天荒なキャラが、中高生の心を鷲掴(わしづか)みにした。その教師を慕う生徒は多かったですね。今なら、週刊誌に書かれて叩(たた)かれていたかもしれません。生徒も教師もハチャメチャでしたが、誰もが『東大に行こう』と思っていたので、学級崩壊のようなことは起きませんでした」

■自由な校風が生徒の個性を育む

和田氏も武蔵高校を卒業し、1年の浪人の後、目標通り東大文科Ⅱ類に合格する。元から音楽好きだったが、浪人中に聴き始めたヒップホップにはまり、東大を中退してプロミュージシャンとなる。

永井隆著『名門高校はここが違う』(中公新書ラクレ)

「東大を中退したこともありますが、僕にとっての青春は武蔵での6年ですね。何でもありの自由な雰囲気が、今の僕につながっています。ラップは出来事やモノをいかに見て、どう表現するかが大切。そして即興で言葉を紡いでいきます。言ってしまえば、何でもありの武蔵こそがヒップホップだったかもしれない」と語ってくれた。

御三家の一つとして名高い武蔵だが、OBたちの進む道のバラエティの豊富さでは他に抜きんでているように感じる。武蔵中学・高校のグラウンドは都内随一の広さを誇るが、優秀な生徒たちが、恵まれた環境、個性的な教師たちの下で、自由に過ごした結果、このように伸び伸びとした個性が育まれるのかもしれない。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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