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「意識高い」だけでは世界の半分が見えなくなる罠がある

プレジデントオンライン / 2020年3月14日 9時0分

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎文庫)

「サブカル評論家」と名乗ってきた宇野常寛さんは、これまでアニメや特撮といったサブカルチャーの作品を通じて社会を論じてきた。しかし新著『遅いインターネット』(幻冬舎=NewsPicks Book)では、政治や経済の話題を正面から論じている。なぜ書き方を変えたのか。本人に聞いた——。(後編/全2回)

■社会に対するマニフェストのような本が必要だと考えていた

——宇野さんのこれまでの著作は、アニメや特撮といったサブカルチャーの作品を通じて社会を論じていました。しかし今回の著書『遅いインターネット』(幻冬舎)では、そうした固有名詞はほとんど出てきません。政治や経済の話題を正面から論じる、という書き方になったのはなぜでしょうか。

サブカルチャーの固有名詞を出さずに一冊の本を書くことは、どこかで一度やらなくてはいけないだろうと思っていました。もちろん『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎文庫)や『母性のディストピア』(ハヤカワ文庫JA)といった著作は僕の代表作だし、この先も何らかの形でサブカルチャーの批評は書くと思います。

『母性のディストピア』(ハヤカワ文庫JA)
『母性のディストピア』(ハヤカワ文庫JA)

しかしそうしたサブカルチャー評論で培った理論や世界観をシンプルにまとめた、社会に対するマニフェストのような本が必要だと考えていたんです。「遅いインターネット」という活動を始めたことで、それが具体的になったという順番です。

——この本は幻冬舎とNewsPicksが共同で刊行する「NewsPicks Book」というレーベルから出ていますね。レーベルの編集長はヒットメーカーとして知られる幻冬舎の箕輪厚介さんです。箕輪さんからはどんな提案があったのですか。

最初は「一緒に何かやろうよ」くらいの感じでした。それで広く社会に訴える、自分の今後のマニフェストのような本を出すなら、自分とタイプの違う編集者と組んだほうがいいんじゃないかと思ったのが依頼を受けた理由のひとつです。ただ、箕輪さんからは「宇野さんとやるなら、NewsPicks Book的なものを内側から壊すようなものがやりたい」とも初期から言われてはいましたね。

■「NewsPicks Book」からこの本を出すことに意味がある

宇野常寛『遅いインターネット』(幻冬舎)
宇野常寛『遅いインターネット』(幻冬舎)

だからもうひとつ理由を挙げると僕も彼もこのタイミングで、いわゆる「意識高い系」の読者たちにちょっと意地悪、というか問題提起をしたかったんですよ。箕輪さんは自分でも言う通り「速い」インターネットの人で、僕とは正反対のタイプです。だから、彼についている読者も「速い」インターネットが好きな人たちで、抽象的な理論や精緻な分析を読むことに慣れていない。明日から役に立つこととか、やる気が出る言葉を求めている。

僕は彼らの前向きなところとか、人の悪口を言わないところが大好きなのだけど、だからこそもうちょっと抽象的な思考も身につけてもらえたらと思っているわけです。僕らは村上春樹のベストセラーと名もなき新人作家の数千部も印刷されない処女作を同じ小説として同等と扱う。しかし目が「$マーク」になっているくせに自分のことを頭がいいと勘違いしているエコノミック・アニマルは、経済規模が違うこの2つの小説はまったく別物に見えてしまい、比較することができない。テキストの内実ではなく、それについた値段しか見えない。しかしその思考では確実に世界の半分が見えなくなってしまう。歴史的に考えれば自明なことが、共有されない世の中になっている。だから、「NewsPicks Book」からこの本を出すことに意味があるなと思ったんです。

ただ、僕が今話したようなことは箕輪さんも他の「NewsPicks Book」の著者たちも持っている共通認識だと思います。そこに一石を投じたい気持ちは箕輪さんにもある。だから彼自身も「NewsPicks Bookの第1章は宇野さんの本で終わらせる」と言っています。

僕としては逆に文化系の「よくわからないけれど、なんとなく資本主義と情報技術はダメなもの」と捉えていて、いわゆる意識高い系が目立っているとツバを吐きたくなる人たちにも「他人をひがんでばかりいないで、ちゃんと変化を受け止めて考えようぜ」って言いたい気持ちもあって書いた本なんですけどね。

■読者が思うほど、世の中のことを考えているわけじゃない

——執筆はスムーズに進みましたか。

正直、すごく苦戦しました。その最大の理由は、やはりサブカルチャーの固有名詞を使わないと決めたこと。これまではサブカルチャーへの愛が書く動機にあったので、たとえ40万字書いても全く苦にならなかった。ところが今回はその駆動力がないので苦戦しました。

ただ、そういう経験を通過することで、今までは自分の書きたいことを書いてきた僕が、ここまでついてきてくれた読者にも、そしてもっと大きな意味での社会に対しても、これまでとはまったく違うレベルで初めて応答できたと感じた。こういう仕事も自分の人生にあっていいと思えたし、書き上げたときの手応えはすごくありました。

宇野常寛さん
撮影=プレジデントオンライン編集部

——「初めて応答できた」とはどういう意味でしょうか。

僕、純粋にうれしかったんですよ。もともと自分はアニメや特撮が好きなオタクで、部屋でずっと本を読んだり、模型を作ったりしているのが一番幸せという人間です。読者が思ってくれているほど世の中のことを考えているわけじゃない。そんな僕の試みに期待してくれる人がいることを、すごくありがたいと感じるようになりました。だからその期待を2倍や3倍で打ち返すことが、もっと面白いことをやるためのブレークスルーになるんじゃないかと考えるようになったんです。

■思想家の吉本隆明と「ほぼ日」の糸井重里を取り上げた理由

以前の僕は、来た球を打ち返す仕事は「どぶさらい」のようなものだと思っていました。テレビのワイドショーに出て、「こんなものを見ているとバカになる」というメタメッセージを視聴者に発信して、そのたびに炎上する。でも今飛んできている球は、僕がこれまでやって来た仕事に対する評価として膨らんだ期待ですから、とてもポジティブな気持ちでいられる。今回の本の執筆は、球を打ち返すのが苦痛ではなかった初めての仕事という言い方もできます。

——今回の著書では、思想家の吉本隆明さんと「ほぼ日」の糸井重里さんのお二人が取り上げられています。宇野さんのこれまでの著作にはない切り口です。

吉本隆明には10年ほど前から関心がありました。吉本にはいろいろと問題もあります。特に90年代後半以降、彼は晩節を汚すと表現されても仕方ないような行動もとったと思うし、テキストも日本語としては破綻しているものが多い。

ただ僕は、それとは別の次元で吉本隆明という人間に興味があった。それは要するに、吉本隆明という思想家というか、詩人の着想の素晴らしさに尽きると思います。その着想を具体的に展開する能力を欠いていた傾向はあるけれど、着想の素晴らしさは評価するべきと考えています。

僕がこの本で吉本隆明と糸井重里を取り上げたのは、この二人が生み出したものが、よくも悪くも日本の戦後社会を規定してしまったと考えているからです。

■共同幻想からの自立は、ユートピアではなくディストピアだった

今のインターネットは、いわば“吉本/糸井的なもの”が全面化した世界です。吉本はこの社会を構成する虚構を「共同幻想」と名付け、魂や神、国家など物理的には存在せず幻想としてしか存在しないものを人々が共有することによって、初めて社会は機能するのだと論じた。そして、これからは情報環境が進化し、人々は共同幻想に依存せずに自立できるという未来像を、かなり肯定的に語っていました。

この未来予測は非常に正確だったと思います。そしてその結果、人々は情報環境に支援されてどんどん自己幻想を肥大させていった。いまフェイクニュースを拡散することで己の精神を安定させ、見たいものだけを見て信じたいものだけを信じることで満たされている人たちは、肥大した自己幻想を維持するために、かつて共同幻想を形成していたイデオロギーを消費しているだけだと僕は思います。そして、その結果、民主主義の根幹が揺らいでいる。彼の未来予測は正しかったが、それはユートピアではなくディストピアだったというのが僕の理解です。

——宇野さんは糸井さんについて、80年代に消費という活動を通じて共同幻想からの自立を企てた先駆者として評価しています。その一方で、現在は事実上の通販サイトになってしまった「ほぼ日」の限界も指摘しています。

僕は糸井重里を吉本理論の最大の実践者として高く評価しています。ただ糸井さんのあの天才的な能力をもってしても、なかなかこの自己幻想の肥大した時代に、それをきちんとマネジメントできる主体を育てるのは難しいということだと思います。立ち上げられたばかりの「ほぼ日」はむしろ「モノ(消費社会)」から「コト(情報社会)」を使ってほどよく距離を取る運動だったと思うんですね。それが今は逆になっている。やはりいま、モノの消費や所有の威力は80年代の頃ほど決定的じゃないですからね。

■「政治的ではない、という政治性」が機能しなくなった

僕は何度かツイッター上で糸井重里を罵倒する若者を見かけたことがあります。「お前らのような団塊世代がそうやって政治的なものから撤退して、スローフード的な“ていねいな暮らし”に逃げているから、今のような格差社会になったのだ」と。

宇野常寛さん
撮影=プレジデントオンライン編集部

その若者の気持ちもわかりますが、それ以上に問題なのは糸井さんがやってきたあえて表面的には政治的なものに背を向けて見せるという態度、つまり「政治的ではない、という政治性」が完全に裏目に出ていることですよね。一方ではこの30年でバブルの前は政治的ではない「ように振る舞う」ことを知的で倫理的だと思っていた当時の若者達がその政治的なものへの免疫のなさから、どんどんイデオロギーを問わず陰謀論者やヘイトスピーカーになっていった。しんどいな、と正直思います。

だからこそ、僕は“吉本/糸井的なもの”を批判的に越えていかなくてはいけないと思う。それは糸井さんたちの世代の仕事ではなく、僕らのような現役世代の仕事です。だから僕はポジティブな意味で、「ほぼ日」的なものの批判的な継承が必要だと考えます。具体的には半径5メートルの世界に閉塞しない、かといって天下国家を語ることで小さな自分をごまかさない。この距離感を、政治的な態度表明やコミュニティを引き受けることに背を向けないかたちで実現していきたいです。

■「論壇」から離れないと、ポジティブなものは残せない

——その継承の手段が、「遅いインターネット」計画ということですね。

僕が糸井さんと同等の仕事ができるなんてまったく思っていませんが、これから「遅いインターネット」のような小さな運動があちこちで起こっていけばいいなと考えています。インディペンデントなメディアがそれぞれのやり方で世の中との距離感を探りつつ、ユーザーは自分でどれに参加するかを選べる状況になっていけばいいなと。

メディアとは、個人が情報に対する「距離感」や「進入角度」を試行錯誤するための回路であるべきだというのが僕の考えです。今はどんなニュースもヤフーやグーグルといったプラットフォームで配信され、どのメディアを選んでも大して情報との向き合い方は変わらない。でも僕は、「自分はこのメディアをよく読んでいる」という選択が、世の中との距離感や進入角度の調整につながることをやってみたかったということです。

——今回の著書は、メディアのあり方についても強く再考を促しています。

この国の言論やジャーナリズムは、先に指摘した通り問題そのものを問う力を失っているんです。マスメディアは炎上している人を魚にいじめ大喜利をしているだけだし、そんなテレビや週刊誌に対抗するはずのネット言論やイベントではその場にいない人の陰口をみんなで言って、あいつらはダメで自分たちは最高だと盛り上がって自分を慰めている。結局やっていることは同じなんですよね。閉じた相互評価のネットワークでのポイント稼ぎをしているという点では。どちらも「飲みニケーション」での陰湿な欠席裁判みたいなものに大義身分がついているだけです。

だから問題についての人間関係ではなく、問題そのものを語る場を作り直さないと何もポジティブなものは残せないという思いがあります。

この国の言論空間は問題そのものを論じる力を失ってしまった。僕が「遅いインターネット」計画という小さな運動をひっそりと始めたのは、メディアが失ったものを取り戻すためでもあるんです。

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宇野 常寛(うの・つねひろ)
評論家、『PLANETS』編集長
1978年生まれ。著書に『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』などがある。立教大学兼任講師。

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(評論家、『PLANETS』編集長 宇野 常寛 構成=塚田 有香)

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