アイサイトを生んだスバルはなぜ自動運転車を作らないのか
プレジデントオンライン / 2020年4月20日 9時15分
※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■創業期から一貫して注力してきたもの
森郁夫が社長を辞め、後任が吉永泰之になったのは2011年の6月。東日本大震災の直後だった。そして、森、吉永の時代に富士重工は成長する。
毎年、販売台数を伸ばし、106万台を売るようになった。しかし、それでも世界の自動車販売シェアから見ればわずか1パーセント。量販車を出している自動車会社のなかではもっとも小さな会社である。
では、その会社の技術面での大きな特徴とは何か。
自動車の速さを実現することでもなければ車体デザインの流麗さの追求でもない。燃費が他社の車に比べてひときわ抜きんでているわけでもない。そして、もはや水平対向エンジンでも四輪駆動でもない。
彼らが創業期から一貫して注力してきたのが「安全」だった。
中島飛行機にフランスからやってきたアンドレ・マリー技師が口を酸っぱくして日本人技師に教えた「搭乗者の安全を守る設計」が富士重工の技術の本質だ。
スピードを上げること、エンジン出力の増大、スタイリッシュなデザインの開発もやってきたには違いないが、根底にあるのは事故を起こさない安全性、事故が起こったとしても、乗員や巻き込まれた歩行者を守る安全技術を貫くことだったのである。
■元航空機メーカーが掲げる「0次安全」とは
「うちは航空機メーカーです。私はそう思っています」
そう語るのは樋渡穣。安全技術の開発一筋にやってきた男で、2008年から搭載されている同社独自の安全技術「アイサイト」に関わってきた。
「私だけでなく、入社してきた技術者のほとんどは車よりも飛行機を作りたくて入った人間です。そこが他の自動車会社とは違います。それに、飛行機って、落ちたら搭乗者の命が失われます。落ちない飛行機を作るのが我々というか中島飛行機の技術者の使命でした。それと同じ意識で僕らは自動車の安全を考えてきたのです」
彼は続ける。
「整理すると、うちの会社が考える安全の方法は四つです」
ひとつめはまず0次安全である。これは同社の造語だ。
一度、聞いただけではわからない言葉だが、つまりは車自体が安全の思想で成り立っているということだろう。同社の車は基本の骨格が安全を重視している。これもまた航空機の技術からきている。
隼などの戦闘機は前後左右から敵機が近づいてくるのを素早く感知しなければならなかった。そのために視界のきくように飛行機を設計している。
つまり、パイロットが乗る操縦席窓を大きく作るのが中島飛行機の伝統だった。
■高さを変えられるヘッドライトを初めて搭載
その精神を受け継いで、スバル360は窓を大きく取り、ピラーを細くした。その思想を守り「窓を大きく」はそれ以後の車も採用している。
他社の車では車体の後部を高くするデザインがあるが、そうしたら後ろの視界が狭くなってしまう。スバルの車にはそういったデザインはない。
日本で初めて「デフロスター」(霜取り装置)を標準装備したのも同社だ。デフロスターがあれば視界がクリアになる。
加えて、高さを変えられるヘッドライトも同社が初めてだ。スバル360はバンパーに手を突っ込んで、ライトの高さを調整できるようにした。
これは荷物をたくさん積んだりして車体が重くなると、ライトの位置も低くなってしまうからだった。安全を考えると、前方を広く照らさなくてはならない。そこで、可変式ヘッドライトを考えたのである。
■走る、曲がる、止まるの機能のすべてを安全に保つ
また、水平対向エンジンと四輪駆動も0次安全および、二つ目の方法であるアクティブセイフティ(走行安全)につながる安全な仕組みだ。
水平対向エンジンは左右対称で、しかも車の真ん中の低い位置にエンジン本体を置くことができる。
一般的な車が載せている直列エンジンは形自体が左右対称ではない。エンジンとはそれ自体が重いものだから、左右非対称のエンジンを車の真ん中に置いても、重心は中心線からずれてしまう。
左右対称の水平対向エンジンを載せていることは重心の安定につながり、そして重心の安定はアクティブセイフティにつながる。
また、四輪駆動であれば、4つのタイヤがつねに接地して動力を伝えている。これまた安定がいい。同社が開発した得意技術には安全の思想が最初から含まれている。
走行安全が達成されていれば水たまりでも、雨の高速道路でも安心して走ることができる。
走行安全のために同社は四輪駆動車に初めてアンチロックブレーキを採用した。このため雪道で横滑りすることはまずなくなった。急にアクセルを踏んでもスピンしないようなトラクションコントロール、横滑りを防止するビークルダイナミクスコントロール……。
走る、曲がる、止まるの機能のすべてを安全に保つ機構を開発することが文化となっているのは、戦前のマリー技師の指導が徹底していて、同社技術者の体質になっているからだろう。
■昔の開発者が考えた「轢かれた人を網ですくう」装置
三つ目がパッシブセイフティの実現である。
パッシブセイフティとはつまり、衝突時の安全を確保するという技術だ。
スバル360の開発者の百瀬はスバル360を開発していた頃からすでに工場内にコンクリートの壁を作り、時速40キロで壁に衝突させる実験を繰り返した。
実験をやったことで、ぶつかった後、車がつぶれても乗員を守るような構造にしたのである。
「搭乗者を守る」のは百瀬にとって当たり前のことだったからだ。
そして、その時に百瀬は不思議な装置を考えている。
実用化はしていないが、車にぶつかってきた歩行者を網ですくいとる装置だ。歩行者がぶつかったとたん、車体の前からするすると大きな網が出て、人をすくい取る……。
そんなマンガみたいなアイデアまで総動員して、衝突した時の安全を考えていたのである。
その結果、今でもむろん車内にエアバッグが装備されているだけでなく、歩行者が車にぶつかった時にも車体の前部でかつ外側にあるエアバッグが作動するようになっている。
■衝突を回避する「アイサイト」の登場
四つ目が予防安全である。同社は予防安全を実現するため、ふたつのカメラ(ステレオカメラ)で人の目と同じように歩行者、自転車、オートバイなどを検知し、近づきすぎたらブレーキをかける機構を開発した。
それがアイサイトだ。
昼間だけでなく、夜間でも雨でも霧でも猛吹雪でもちゃんと対象を検知するのがこの機構の優れたところだろう。
ただし、アイサイトのような路上の対象を検知して車を止める技術は世界中の自動車会社がそれぞれ開発している。
検知するためにカメラを使うところもあれば、電波やレーザービームを用いる会社、カメラとレーザー、電波を併用している会社もある。
しかし、たとえば電波の場合であれば金属ならば反応するけれど、段ボールなどの物体だと検知しないからぶつかってしまう。レーザービームは雪が降ると光が乱反射して狂いが生じる。
樋渡は「ちょっと難しい話ですけれど」と前置きしたうえで、アイサイト開発のきっかけを語った。
■カメラの性能ではなく、30年超分のデータがすごい
「アイサイトは元々は1989年に開発した技術でした。物体を検知する技術ですけれど、エンジン内のガソリンと空気を混ぜた混合気の過流(渦巻き)を計測する時に使っていた技術の応用なんです。
過流の動きを調べる技術でした。透明なシリンダーを作って過流の動きを計測するために、ふたつの視点の映像データを作った。それを物体を検知する技術に転化させたのがアイサイトで、すでに30年以上の路上データを収集しています。どこよりも早くから数多くのデータを集めているから、アイサイトは物体の検知にすぐれている。だから止まります。
カメラの性能というよりも、30年以上にもわたる制御プログラムの豊富なデータが価値なんです。
また、アイサイトは前方の対象物を検知し、対象物との距離を測る技術でもある。ですから車線の中央を維持して運転をアシストすることもできる。
つまり、自動運転にも応用できる。実際、うちの車には自動でハンドルをコントロールする装置が付いています」
■「当たり屋」を防ぐことは不可能に近い
ただし、問題がないわけではない。
アイサイトはカーナビのように後付けすることはできない。車両のブレーキシステムとつながっているので、新型のステレオカメラだけを取り付けることはできないのだ。
客からは「今乗っている車にアイサイトを付けたい」と言われることがある。だがこの問題について、今のところはどうにもならない。
また、アイサイトは「ぶつからない」システムではあるけれど、「ぶつかってきた」人や自転車には当たってしまう。わかりやすくいえば、どんなシステムでも「当たり屋」を防ぐことは不可能に近い。
車の前に身体を投げ出して、飛び込んできた人を検知して止まることができても、ぶつかってきた人間はケガをする。ぶつからない装置とはあくまでも、相手に悪意がない場合に通用するものだ。
飛び込んできた物体をよけたり、車体を急停止する装置が実現するのは遠い未来だと思われる。
■自動運転、無人運転車を作らないワケ
さて、樋渡と同様に、技術開発に携わってきた部長の佐瀬秀幸は「うちは事故を減らすことが目的なんです」と主張する。
「スバルがやることは自動運転、無人運転ではありません。自動運転はある程度まではやれますけれど、それ以上を狙うとお金がかかって車両価格が高くなってしまう。それでは一般の人が買うことができません。
狙うのは量販価格で事故ゼロに近づく車です。世の中に走っている車がすべて自動運転になったら別ですけれど、スバルは今のところハンドルから手を放して運転できる車は作りません」
スバルの技術者は他社に比べて人数が少ない。自動運転、無人運転、スマホによる運転操作など、業界大手や新規参入企業が取り組もうとしている多くの開発目的を自社の技術陣だけで追うことはできない。
そういったこともあって、飛行機由来の安全、搭乗者の安全を第一の目標にしているところもある。
■「安全」というコンセプトは見直されている
だが、彼らは長年にわたって、ずっとそれだけをやり続けてきた。だから、どこの企業よりも多くの路上の安全データを蓄積することができた。
これまで、クルマを買う人の尺度にしたのはスピードであり、デザインであり、荷物をどれくらい積めるかといったものだった。
だが、完全自動運転が目前に迫る現在になって「安全」というコンセプトは見直されている。
今、自動車を買う人が気にしているのは100キロを超える速度で巡行することではない。
事故を起こさない装置が付いているかどうか、操作が簡便なものであるかどうかが買うための動機になりつつあると言っていい。
ユーザーはもはやどういう車かを考えているわけではない。
どういうサービスをしてくれる車なのかを買うための尺度として判断している。
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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