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白人対黒人の代理戦争に…モハメド・アリが初めて負けた試合が視聴者3億人の「世紀の一戦」となったワケ

プレジデントオンライン / 2022年12月10日 15時15分

写真=manhhai/CC BY-NC 2.0/flickr

1971年、アメリカで行われたボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチは、世界で約3億人が視聴する「世紀の一戦」となった。モハメド・アリ対ジョー・フレージャーの一戦は、なぜそこまでの注目を集めたのか。作家の百田尚樹さんが書く――。

※本稿は、百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

■なぜフレージャー対アリ戦は「世紀の一戦」なのか

世界ヘビー級タイトルマッチにおいては、これまで「世紀の一戦」と銘打たれた名勝負がいくつもあった。20世紀初頭に行なわれたジャック・ジョンソン対ジェームス・J・ジェフリーズの戦いは、黒人対白人の代理戦争であったし、第2次世界大戦開戦前夜に行なわれたジョー・ルイス対マックス・シュメリングの戦いは、人種の争いに加えて、アメリカの自由主義対ナチスの全体主義という様相を呈していた。

いずれも単にスポーツの対戦という枠を超えた「戦い」だったが、ジョー・フレージャー対モハメド・アリの一戦もそうだった。ここには「ベトナム戦争」が絡んだ政治的な意味もあった。

この試合は純粋にボクシングの試合として見ても、過去に一度もなかったプレミアムが付いたものだった。

対戦するのはともに無敗の前チャンピオンと現チャンピオン。かつて史上最強の呼び声が高かったアリの戦績は31戦全勝(25KO)、対するフレージャーも史上最強の仲間入りをするかもしれないと言われているボクサーで、その戦績も26戦全勝(23KO)というパーフェクトなものだった。

長いヘビー級の歴史においても、無敗の2人のチャンピオン(一人は前、一人は現チャンピオン)がリング上で雌雄を決するという試合は一度もなかった。

しかもアリはスピード感豊かな新しいスタイルのアウトボクサー・タイプ、フレージャーは猪突猛進の古いスタイルのファイター・タイプであり、この対決は異なるボクシング・スタイルの激突でもあった。マスコミはそれに加えて、別の対決要素も盛り込んだ。すなわち「徴兵忌避者対愛国者」、「イスラム教徒対キリスト教徒」といった具合だった。

■アリのやばすぎる“口撃”

アリは試合前の舌戦でフレージャーを口汚く罵った。「のろま、間抜け、バカ」といった罵倒語だけでなく、白人に従順な黒人を揶揄する意味で、彼を「アンクル・トム」と呼んだ。

モハメド・アリ氏(写真=Wikimedia Commons)
モハメド・アリ氏(写真=Wikimedia Commons)

これは前にフロイド・パターソンに使ったのと同じ手口だった。アリはテレビ番組でこうも言った。

「フレージャーを応援するのは、スーツを着た白人と、アラバマ州の保安官と、KKK団だけだ」

またことあるごとに「フレージャーを応援する黒人は、どいつもこいつもアンクル・トムだ」と言った。アリはそうやってフレージャーに心理的プレッシャーを与えたのだが、そのやり方はフェアではなかった。

■「白人に反旗を翻す新しい黒人」対「白人に忠実な古い黒人」

アリの言葉に乗せられた(あるいは乗せられたふりをした)マスコミは、フレージャーを「白人陣営」へと組み入れた。その方が対立構造がはっきりしたからだ。フレージャーはアリほど言葉が巧みでなかったから、多くの人から白人のために戦うボクサーと見られた。それでこの試合は、黒人の世代の戦いとも見られた。

すなわち「白人に反旗を翻す新しい黒人」対「白人に忠実な古い黒人」という構図だ。黒人の多くがアリこそ自分たちの代表だと思った。

しかし実際はケンタッキー州の中産階級出身のアリに対して、サウスカロライナ州の極貧農家に生まれたフレージャーの方が、ずっと「黒人的」だった。

ジョー・フレージャー氏(写真=Nationaal Archief Fotocollectie Anefo/CC-BY-SA-3.0-NL/Wikimedia Commons)
ジョー・フレージャー氏(写真=Nationaal Archief Fotocollectie Anefo/CC-BY-SA-3.0-NL/Wikimedia Commons)

ろくに小学校も通わず、7歳の時から綿花農場で働き、十五歳の時に故郷を出て、フィラデルフィアの食肉加工場で働き、16歳で結婚し、すぐに子供ができ、貧困から脱出するためにボクシングを始めた男――フレージャーこそ典型的な黒人ボクサーの生き方だった。

政治的な発言をしないことを問い詰められたフレージャーはこう言った。

「私は金と車ときれいな服が欲しくてボクサーになった。それに専念するのを、なぜ責められなければならないのか」

■王者フレージャーの反発

フレージャーのアマチュア時代から面倒を見てきた黒人マネージャー、ヤンク・ダーラムにとっても同じだった。元ボクサーのダーラムは第2次世界大戦中に事故に遭い、貧しいジムのトレーナーに転向した。もちろん金にはならず、鉄道の溶接工をしながら、多くのボクサーを指導したが、これまでものになったボクサーは誰もいなかった。

フレージャーの大成功により、人生の後半についに大金を手にすることができたのだ。フレージャー=アリ戦におけるダーラムの取り分は、フレージャーのファイトマネーの20パーセント、すなわち50万ドルだった。まさにフレージャーとダーラムこそ、アメリカン・ドリームの体現者と言えた。

そんな2人にとって、「本当のチャンピオンは俺だ。フレージャーはいかさまのチャンピオンだ」というアリの言葉は許しがたいものだっただろう。フレージャーはいかさまによってチャンピオンになったわけではない。努力と実力によって多くの強豪をなぎ倒し、ヘビー級のタイトルを統一したのだ。アリの徴兵拒否はフレージャーの関与するところではなかった。

フレージャーはアリに対して憎しみに似た怒りを抱いた。そして必ずアリを倒すと決意した。

■アポロ11号の月面着陸と同じ視聴数

1971年3月8日、ニューヨークのMSGで世紀の一戦が行なわれた。

当日の体重は27歳のフレージャーが205ポンド2分の1(約93.2kg)、29歳のアリが215ポンド(約97.5kg)だった。定員1万9500人のMSGには2万455人の観客が入り、会場の外には入場できない人が1000人以上いた。150ドルのリングサイド席には1000ドル以上の闇値がついた。135万2951ドルというゲート収入は、これまで同会場で行なわれたボクシング興行の倍以上の額だった。

会場に入った記者だけでも621人に上り、その中には28ヵ国から来た外国人記者が113人もいた。いかにこの試合が世界中から注目を集めていたのかがわかる。

マディソンスクエアガーデン
写真=iStock.com/Extreme Media
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Extreme Media

ソ連の政府機関紙「イズベスチャ」も大きな関心を抱いていた。ソ連はベトナム戦争に反対したアリを評価し、「アメリカの資本主義に抵抗する革命的英雄」と誉めたたえていた。またアラブの週刊誌『アル・ウスブ・アル・アラビ』でも試合前に特集が組まれた。もちろん日本の新聞にも試合前に記事が載った。

この試合は世界35カ国で衛星生中継され、推定で3億人が観たと言われている。この数字は2年前にアポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した中継を観た人数に並ぶものだった。試合は日本でも東京12チャンネル(現・テレビ東京)によって中継された。

余談だが、当時、中学3年生だった筆者は学校を勝手に早退して、テレビ観戦した。アメリカからはるか離れた東洋の中学生にまで関心を抱かせた大試合だったのだ。クローズド・サーキットとテレビ中継の興行収入は3000万ドル近かったと言われている。

■戦前の予想

会場にはフランク・シナトラ、ダスティン・ホフマン、マルチェロ・マストロヤンニ、バート・ランカスター、ダイアナ・ロスといった有名スターや歌手たち、ニューヨーク市長や上院議員やケネディ家の人々、ノーマン・メイラー、ウィリアム・サローヤンといった著名作家など、数多くのセレブが詰めかけた。

フレージャーのファンの多くは白人であり、アリのファンの多くは黒人であった。しかし白人にもアリのファンは少なくなく、黒人の中にもフレージャーを応援するものも少なくなかった。

試合前の賭け率は6―5でフレージャーが有利と出ていた。元世界チャンピオンのジョー・ルイスはフレージャーが勝つだろうと言った。しかしアリの勝利を予測する専門家も少なくなかった。

■「蜂のような」パンチを繰り出すも

午後10時40分、運命のゴングが鳴った。

第1ラウンド、フレージャーはかがめた体を上下に揺さぶりながら、蒸気機関車のように前進し、凶器のような左フックを振るった。

アリは軽やかに動き、左ジャブ、左ストレート、左フック、左アッパー、それに右ストレートと右フック、右アッパーという多彩なパンチで迎え撃った。速く鋭い「蜂のような」パンチを何発もフレージャーの顔に突き刺したが、スモーキン・ジョーの前進を止めることはできなかった。時折、フレージャーの左フックも命中したが、アリは効いてないという風に首を振った。

続く第2ラウンドも同じ経過をたどった。いずれもアリが取ったラウンドだったが、アリもまたフレージャーの左フックを何発か被弾していた。アリがこれほどパンチを貰うことは珍しかった。

第3ラウンドあたりから様子が変わってきた。アリの足が止まり、ロープに詰められるシーンが増えた。それとともにフレージャーの左フックが当たる頻度が上がった。

中盤、アリは明らかに疲れを見せ始めた。スタミナの配分を考えてか、パンチを出さずに休むラウンドが増えた。観客はアリの戦い方にブーイングを起こした。一方のフレージャーの方は戦い方をまったく変えなかった。独特のクロスアーム・ブロックの構えで、愚直なまでに前進し、強烈な左フックを振り続けた。ただ、その顔はアリの強烈なカウンターを浴びて腫れあがり始めていた。

■会場に鳴り響いた悲鳴

第11ラウンド、フレージャーの強烈な左フックがクリーンヒットし、アリの腰ががくんと落ちた。明らかに効いていたが、フレージャーはこのチャンスを生かすことはできなかった。

次の第12ラウンドと第13ラウンドはアリも必死の反撃をした。渾身の力を込めたパンチを何発もフレージャーに見舞ったが、フレージャーもパンチを打ち返した。

フレージャーの闘志は驚異的なものだった。アリのパンチをどれほど浴びても、決して前進をやめなかった。唸り声を上げながら(テレビでも聞こえた)左フックを打つ姿は鬼気迫るものがあった。後にフレージャーが語ったが、最後の3ラウンド、彼ははるか昔の南部の農場での過酷な日々を思い出していたという。

試合はついに最終ラウンドに突入した。すでにフレージャーの顔はどす黒く腫れあがってバスケットボールのようになり、鼻と口からは血が流れていた。アリもまたフレージャーの左フックによって、顔の右半分が異様に腫れあがっていた。

そのラウンド半ば、フレージャーの怒りを込めた左フックがアリの顎を捉えた。アリは両足を跳ね上げて仰向けにダウンした。MSGに悲鳴が轟いた。

モハメド・アリからダウンを奪ったジョー・フレージャー=1971年3月8日、マジソン・スクエア・ガーデン
写真=dpa/時事通信フォト
モハメド・アリからダウンを奪ったジョー・フレージャー=1971年3月8日、マジソン・スクエア・ガーデン - 写真=dpa/時事通信フォト

誰もが(アリのドクターであったパチェーコでさえも)アリはもう立てないと思ったが、プライドの塊である前チャンピオンは何事もなかったかのように立ち上がった。驚嘆すべき意志の力だった。

しかし甚大なダメージを負っているのは明らかだった。フレージャーはKOを狙って猛攻したが、アリは懸命に耐え抜いた。そして、ついに試合終了のゴングが鳴った。その瞬間、フレージャーは血だらけの顔で勝利の雄叫びを上げた。

判定は3-0でフレージャーの勝ち――アリの不敗神話が崩れた時であった。

■運命の女神が与えたもの

モハメド・アリの敗北は世界に衝撃を与えた。

それは二つの意味を持っていた。一つは、アメリカの体制に反逆を試みた男が現実の前に敗れ去った事実だ。不当に王座を剥奪され、多くの金と輝く時間を奪われた男に、運命の女神は褒美を与える代わりに、敗北という屈辱を与えた。現実世界はおとぎ話のような結末は用意しなかったのだ。

もう一つは、不世出の天才ボクサーも、ただの人であったということを見せたことだ。敗北により、それまで彼が纏っていた「不可能を可能にする」神秘的なオーラは消え失せた。どんなに素晴らしいアスリートにも訪れる「衰えの時」から、アリもまた逃れられないということを多くのファンは見たのだ。

■2人の観客がショック死した

試合会場のMSGでは、2人の観客が心臓発作で亡くなった。おそらく最終15ラウンドのアリのダウンの瞬間にショックを受けたものとみられている。全米のクローズド・サーキットの会場でも何人かがショック死をしたというニュースが伝えられている。ボクシングの試合で、複数の観客がショック死を起こすほどの試合など滅多にあるものではない。アリの敗北はそれほどショッキングなものだったのだ。

控室に帰ったアリは敗北を受け入れた。試合前に酷評していたフレージャーの強さを認めた。

「やつはチャンピオンだ。KOされなくてよかった」

口を開くのもやっとの状態で喋る姿には、かつての「ルイヴィル・リップ」(ルイヴィルの大口叩き)の威勢はどこにもなかった。記者たちは、アリがこれで引退するかどうかはともかく、現役を続けたとしてもフレージャーに勝てる見込みはないだろうと考えた。

百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)
百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)

一方、アリを打ち破って、名実ともに「真のチャンピオン」となったフレージャーの評価は一気に上がり、一躍「史上最強のヘビー級チャンピオン」候補となった。同時にアリを快く思わない人たちにとってのヒーローとなった。

しかしフレージャーはすぐに次の防衛戦を行なうことができなかった。アリとの激戦によって三週間もの入院を余儀なくされたからだ。それほどのダメージを受けながら、15ラウンドにわたってアリを打ち続けたフレージャーの執念も凄いが、アリに勝つためにはそこまでの犠牲を払わなければならなかったということだ。

余談だが、この試合を報じた日本の大手全国紙は、すべて「カシアス・クレイ」と書いていた。日本で「モハメド・アリ」と呼ばれるようになるのは、もう少し後のことである。

■敗北の代わりにアリが得たもの

その年の6月28日、アリはある意味でフレージャー戦の敗北を打ち消すくらいの大きな勝利を得た。アメリカ合衆国の最高裁判所がアリの有罪判決を覆す判決を下したのだ。これによりアリは晴れて自由の身になった(それまでは保釈金を払っての仮釈放で、最高裁で有罪が決まればただちに収監される身だった)。これまでアリを非難していた者たちは、この判決で完全に大義名分を失った。

逆に多くのアメリカ人がこの判決を支持した。その頃、ベトナム戦争は完全に泥沼化し、アメリカ世論もその戦争に対して批判的な声が多数を占めるようになっていた。たとえタイトルを失おうとも自らの信念に基づくままに徴兵を拒否したアリの勇気を、多くのアメリカ人が評価したのだ。かつてアメリカの敵とも見做された男は、今や新しい英雄となりつつあった。

モハメド・アリ
写真=iStock.com/georgeclerk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/georgeclerk

しかし最高裁も国家も、アリに無罪を与え、パスポートも返却したが、タイトルまでは返してはくれなかった。それは自力で奪い返すしかなかったのだ。そしてここからアリの苦闘が始まる。

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百田 尚樹(ひゃくた・なおき)
作家
1956年、大阪府生まれ。同志社大学中退。放送作家として人気番組「探偵! ナイトスクープ」などを構成する。2006年『永遠の0』で作家デビュー。13年『海賊とよばれた男』で第10回本屋大賞を受賞。

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(作家 百田 尚樹)

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