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人生や仕事はうまくやろうと気負ってはいけない…「良い人生」が実現する3つの条件

プレジデントオンライン / 2023年10月13日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

幸せになりたいと願いつつも、それが叶う人が多くはないのはなぜか。ちょっとした習慣、考え方ひとつ変えるだけで誰でも幸せになれる。「プレジデント」(2023年11月3日号)の特集「人生の価値」より、記事の一部をお届けします――。

■教養とは「自由になるための技術」

人生を価値あるものにするためには何をすべきか。一橋ビジネススクール特任教授の楠木建さんは語る。「まず、何より重要なのは自分なりの価値基準をしっかり確立することです。そのためにはいわゆる教養を身に付けることが必須になります。教養とは、学歴の高さや博識さではありません。さまざまな経験や実践、読書などによって地道に培っていくべきものです」

教養=リベラルアーツとは、「自由になるための技術」のこと。その対義語はメカニカルアーツ(機械的技術)。この分類は古代ギリシャ・ローマ時代に遡る。当時の社会には「自由市民」と「奴隷」の階層があり、奴隷の人々はメカニカルアーツを身に付け、専門知識を用いた仕事をした。奴隷とはいえ給料をもらい、仕事に関する創意工夫や裁量の自由があり、能力によって評価されるプロフェッショナルだ。「それに対して、リベラルアーツは実務よりも、『何をすべきか』という目的選択、価値判断に関わる技術です。リベラルアーツを身に付けているということは、その人に固有の価値基準を持っている状態と言えるでしょう」

人生の質を高めるのは知性と教養。時に自分を客観視し、俯瞰してみる。物事の背後にあるものを抽象化して本質を摑む。自分の経験と頭と言葉で獲得した価値基準を持つことが、精神的な自立と自律を保つことになるのだ。

■【第1の条件】決して、他人の幸福をうらやんではいけない

他人より幸せになるのはなぜ困難なのか

幸福は人間の最大の関心事です。人はみんな幸福になりたい。しかし、そう願いつつも、それがきちんと叶う人はそれほど多くありません。

【図表】人生の分かれ道 幸せになる人はどっち?

なぜか。原因のひとつは「他人と比較」することにあります。フランスの哲学者モンテスキューは述べています。「ただ、幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。しかし他人よりも幸せになりたいというのであれば、それは困難だ。われわれは、他人を実際以上に幸福だと思っているからだ」

あの人に比べ、自分はなんてちっぽけなんだ。そう自分を卑下し、人をうらやむ。多くの人が大なり小なりそんな経験をしているでしょう。「同期の社員が自分より早く出世・昇進した」「近所に住む同じくらいの年代の人の家のほうがウチより大きい」……など挙げればキリがありません。

滑稽なのは、みな比較対象が極めて身近な存在だということです。同期との収入の差を嘆く人はいても大谷翔平選手と比べる人はいませんし、自分が受け持つ仕事の規模感を大学時代の友人と比べる人はいてもアレクサンダー大王と比べる人はいません。才能が突出している、“時空間”が異なる、そんな存在には目もくれないのに、なぜ自分に近い人と比べて一喜一憂するのか。これは、「自分の価値基準」が確立していないことが原因です。この価値基準に関しては3ページに詳述しますが、これは経験や教養を身に付けることで確立するもの。それがないと、その辺に転がっている出来あいの基準を当てはめるしかない。

つまり、最大公約数的なあいまいな基準、誰かが話していた根拠不明な説とか調査統計の平均値とか大学の偏差値とか就職人気ランキングとか。他人や業者が決めた基準に乗っかることで自分のポジションを推し量るような人はいまだ少なくありません。出世・昇進、年収、住む家……何かのものさしで生きる人には幸せは訪れません。なぜなら、誰かに“勝った”としても、必ず、上には上がいるからです。

自分の価値基準がないと振り回され、他人の良い点ばかりを見て、自分の悪い点ばかりを見てしまうなど、悪循環がその後も続くことになり、生涯にわたって苦しむことになってしまいます。

以前、都内にある有名進学予備校で講演する機会がありました。予備校の生徒だけではなく、教育熱心な保護者の姿もありました。講演の中で僕は質問をしました。「もしお子さまをどこの学校でも入れてあげると言われたら、どこを選びますか」。すると「東大です」と言う人が圧倒的。ほほう、東大ね。「で、何で東大なのですか」と聞いたときの回答がすごく印象に残っています。「やっぱりいちばん入るのが難しくて、良い学校だから」「東大に行くと、より良い職業に就ける可能性が高い」「では、より良い職業って何でしょう」とさらに聞くと、「例えば大蔵省(現在の財務省)とか……」。なぜならそれがエリートが就く仕事だからです。その中でも、できたら主計局。それがいちばんエライということになっていて、見栄も張れるから――。これこそが「他人が良いと思うものを持っている」ことが幸せになってしまうという成り行きの典型です。本当は幸せになることが目的のはずなのに、そのはるか手前にある手段が目的化してしまう。今は東大がスタンフォードに、大蔵省がグーグルに変わっているだけで、いつの時代もこういう他律的な人はいます。

その手の人は、自分の価値基準をつくることをすすめても聞く耳を持ってくれません。その代わりに、「これからはこうじゃないと、生き残れない」などと言います。遠く歴史を遡れば、生きることが目的になっている時代、生きるために生きなければならない時代が確かにありました。しかし、戦国時代じゃあるまいし、生き残れないという人で、本当に死んだ人はいません。

そうした環境で生きる人が陥るのが嫉妬地獄です。人生は誰しも山あり谷ありのはずですが、嫉妬地獄の人は誰かの成功している部分、恵まれている部分しか見ていないことでこの感情が生じるのです。

「満足」の対極は「不満足」ではない

幸・不幸に関する名言はたくさんあります。ダンデミスは「他人の幸福をうらやんではいけない。なぜなら彼の密かな悲しみを知らないのだから」と言っています。この通りだとすれば、栄光を極める大谷翔平選手にもアレクサンダー大王にも人知れずつらい思いや悲しみや苦悩の時間もあるはず。でも、嫉妬に狂う人は視野も狭いため、それを想像することさえできない。

言うまでもなく、幸福感は主観的なもので決まります。幸福は、外的な要因よりも、その人自身の頭と心が感じることです。自らの中に抱く価値基準を自分の言葉で獲得し表現できたら、その時点で幸福なのです。「これが幸福だ」と自分で言語化できている状態、これこそが幸福にほかなりません。

ところが、社会にはさまざまな撹乱要素があります。高度にデジタル化したソーシャルメディアもそうです。SNSほど人の幸福感を揺るがすものはありません。そこは嫉妬が幾重にも渦巻く世界です。フェイスブックやインスタグラムに投稿する人は、意識的か無意識的かは別にして「自慢」をします。フェイスブックに時間を費やすと悲しい気持ちや寂しい気持ちになる、という学術的な調査結果がありますが、なぜ、人の気分に悪影響を与えるのか。実は、これも比較が元凶なのです。

投稿者のほとんどは自分の人生の良い部分を披露します。家族で食べたレストランのご馳走、かわいい子供の表情、素敵な休暇、輝かしいキャリアなどを示唆した写真や文を見せつけられると、「なんて素晴らしい毎日を過ごしているんだ、それに比べて自分はパッとしない」と、得も言われぬ敗北感やモヤモヤを感じさせられるわけです。

しかし、見方を変えるとどうでしょうか。そうやってキラキラした写真や文をせっせと投稿している人はどんな心理状態なのか。「自分はこんなに幸せ」と言わんばかりに、盛りに盛った個人情報をあえてネット上にオープンにして、周囲からの承認を求めている。

それは幸福か不幸かでいえば、後者の人の行為であるように思われます。こういう人もやはり自分の価値基準が確立していない、絶えず「他人との比較」の中で生きている人かもしれません。そもそも大谷翔平選手は自身のホームラン写真をSNSに掲載しません。本当に充実し幸せな人はそうした顕示欲を出すことはないのです。

では、どうすれば他人と自分を比較して嫉妬しなくてすむ本当の幸福感を抱くことができるのか。ラ・ロシュフコーは『箴言集』でこう言っています。「幸福になるのは、自分の好きなものを持っているからであり、他人が良いと思っているものを持っているからではない」

僕はこれまでいろいろな経営理論を学んできました。まだ学生の頃、アメリカの臨床心理学者、フレデリック・ハーズバーグが提唱した「二要因理論」という理論もそのひとつ。この理論は人間の幸福や満足感を促進するモチベーションはどこから生まれるのか、を探るのがテーマでした。

実証研究で明らかになったことは、ビジネスパーソンなどのモチベーションの最大の要因となるのは、「人に信頼されること」や「本人が実践すること(仕事など)自体に意義を感じられること」だったことです。これらの要因が大きくなればなるほど、本人の満足感、幸福感はがぜん高まりました。

一方、面白いのは、「給料」や「勤務条件」といった待遇面の要素を上向かせて、昇級・昇進をしたとしても、意外なことに満足感・幸福感はあまり満たされなかった。確かに「不満足」感は消えていきましたが、それが必ずしも満足感につながらず、モチベーションもあまり高まらない。つまり、この調査の結果、人の「満足」の対極は「不満足」ではなく、ただ不満足が解消されるという「没不満足」の状態だったのです。昇給や昇進を果たした「没不満足」な状態は、本質的なモチベーションが湧いたり、満足感・幸福感が高まるわけではない。結局、本人が仕事そのものに楽しみや意義を感じている状態が「最高」だったのです。まさにラ・ロシュフコーが言った「幸福になるのは、自分の好きなものを持っている」状態こそが幸せだということを証明した形になります。自分の人生を価値あるものにするためには自分の軸、価値基準の確立が必須です。次項でそのことを解説していきましょう。

■【第2の条件】決して、うまくやろうと気負ってはいけない

思い通りにいく仕事なんてひとつもない

近年、世の中でもてはやされている言葉があります。困難に直面してもやり抜く力を意味する「GRIT」や、逆境から回復する力を意味する「レジリエンス」です。現代の日本には、そうしたつらい局面に遭遇し、心が折れてしまう人が多いということでしょう。とりわけビジネスシーンにおいてこうした言葉が流通しているのは、「困難時にやり抜く力」や「挫折からの回復力」がなければ、競争の激しい世界では生き残れないと考えられているから。

【図表】人生の分かれ道 幸せになる人はどっち?

そのため、ビジネスパーソンは「この仕事をうまく乗り越えよう」「成功を積み重ねていこう」という常勝・上昇意識を無意識に抱くことが多いのですが、この2つのはやり言葉は一種の呪縛になる恐れもあります。「うまくやろう」「成功しなければならない」という気負いや思い込みを生み出し、それがゆえに「うまくいかないのではないか」といった心配や不安を誘発し、実際にネガティブな感情や結果を自ら招いてしまうこともあります。

そのような負のスパイラルから抜け出すにはどうしたらいいのか。参考までに僕の仕事術を紹介します。

生活や仕事をする中で、人は次第に自分の本質を知り、自分の価値基準や、生き方のスタイルを練り上げていきます。それが自然とその人の「好き・嫌い」や「幸せの基準」にもなります。僕の場合、無類の本の虫で、書くことが至上の喜びです。書けと言われれば10万字でも100万字でもできます。その代わり、組織で働くことがあまり得意ではありません。簡単にいえば社交性は高くなく、ひとりの時間が好きということなんです。こうした「傾向」は人の数だけあるでしょう。

そんな僕が行き着いた仕事に対する「構え」があります。それは、「思い通りにうまくいく仕事なんて世の中にひとつもない」というもの。これを「絶対悲観主義」と呼んでいます。

仕事とは、100%自分以外の誰かの役に立つためにすること。自分のためにすることは趣味です。仕事は、自分以外の他者=お客さまに価値を提供して喜んでいただくことです。

大事なポイントは、こちらがお客さまをコントロールできないということ。どんなに偉い人でも、あのイーロン・マスクさんでも客に自社の製品やサービスを無理やり買わせることはできません。相手がいる話なので、こちらの思い通りになるわけではありません。

うまくいくかどうかは、やってみなければわかりませんが、いついかなる状況や仕事でも「世の中はそんなにうまくはいかない」「いいことなんてひとつもない」という思いで常に事前に構えておく、これが絶対悲観主義です。

何事においても「まあ、うまくいかないだろうな」と構えつつも、「でもちょっとやってみるか」。こういうスタイルなんです。

冒頭で触れたように「GRIT」や「レジリエンス」が声高に叫ばれるあまり、成功の呪縛にとらわれているビジネスパーソンがいるのなら、この絶対悲観主義の導入を検討してもいいかもしれません。もちろん、この主義は僕にフィットしたものであって、すべての人に適しているわけではありませんが、試す価値はあるように思います。

結局のところ、私の考える最強のソリューションは「成功しない」ことです。客観的にある程度達成できても「これは成功と呼べるほどではない」くらいの認識でいるのがいい。

そもそも自分の思い通りになることなんてほとんどない。その「事実」をしっかりと胸に刻めばいい。それにより“成功の呪縛”から抜け出て、自由になれる。そうなると、不思議に困難も逆境も挫折もない。思い通りにならないという覚悟を決めさえすれば、あとは目の前の仕事を気楽に取り組み、淡々とやり続けることができます。GRITとか、レジリエンスとかいった力は特段必要ではなくなるのです。

「アウトサイドイン」と「インサイドアウト」

そして、絶対悲観主義を実践すると、他のメリットもあると気がつきます。

まず、これは実行するのがとても簡単だということ。失敗は想定内なので、必要以上に恐れる必要もなく、仕事に取りかかるまでの時間が短縮されます。大事な案件ほど、つい後回しにしがちですが、絶対悲観主義は「失敗できない」とは考えないので、仕事の立ち上げが早まります。第2は、リスク耐性が高くなること。第3は、実際の失敗に対する耐性も高まること。第4は、顧客志向が徹底され、自然に相手の立場で物事を考えるようになること。最後に第5は、自分特有の能力が見えてくること。絶対悲観主義者は「●●が上手ですね」とホメられても真に受けません。謙虚というよりは、自分の能力を簡単に信用しないのです。しかし、長い期間評価を受けていると「地に足の付いた楽観主義」が生まれてきます。

ビジネスパーソンの中には根拠のない楽観主義の人も散見されます。そういう人は、アクシデントや想定外のことが起きて切羽詰まると、「恐らく××となるだろう」「●●が何とかしてくれるだろう」と土壇場でなぜか都合の良いほうへ逃避しがちです。そうなると仕事の質は低下してしまいます。

僕が仕事をするときの思考様式の分類としているのが「アウトサイドイン」「インサイドアウト」です。

前者は、マーケットなどの現状や今後の見通しなどの情報を知ったうえで、自分の進む道を選択する方法。一方、後者は「ま、これがイイんじゃないの」という直観が先にあって、その後に外部に目を向けるやり方です。いわば手順の違いですが、前者のように相手に合わせてうまくやろうという気持ちが先立つと、思い切った決断ができません。仮に結果がうまくいかなくてもいいと割り切って動くタイプの僕は、まず自分が好きなほう、面白いと思うほうへ動いた後に周囲の反応を見ます。

それは大学での仕事だけでなく、書籍の執筆でも同じです。その時々で読者にウケるテーマを熟知している出版社から「こういう本を作りませんか」とオファーをいただくこともありますが、基本的には丁重にお断りしています。それは、僕の意思と関係なく、出版社側が売ってくるサーブだからです。僕は、まず自分の側から思いっきりサーブを打つべきだと考えています。

当然のことですが、自分の仕事について他社やマーケットがどのように受け止めているか、読者にはどんなニーズがあるのかを知ることは大切です。しかし、アウトサイドに強く重心を置いてしまうと、どうしても相手に合わせて「うまくやろう」という気持ちが先立って、思いっきり打てません。

小説家・ヘミングウェイは「心の底からやりたいと思わないなら、やめておけ」と言っています。今ウケそうなことに合わせるよりも、自分の中にどうしてもやりたいことや、人に言いたいことがあるかどうかが先決です。サービス権だけは手放してはいけません。

画家・ゴッホもこう言っています。「美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ」

例えば、現代の多くの人々が関心を持つDX(デジタル・トランスフォーメーション)やジョブ型雇用、脱酸素といった先端的な事象は、いわば「美しい景色」。でも、僕はそういうテーマを追いかけるのではなく、もっとありふれた景色の中に本質や論理を見つけ出したい。文豪・武者小路実篤の言葉を借りれば「さあ、俺も立ち上がるかな。まあ、もう少し座っていよう」です。自分にとっての機が熟すのを待つ。それから取り組んだほうがアウトプットの質は高まる。だから、座って待つ。これは僕の仕事にとっての最重要な原理原則のひとつです。

人生や仕事は、なるようにしかならないが、なるようにはなる

仕事やプライベートでいろいろな人を見てきて思うのは、人生や仕事は「出会い頭」や「ひょんな縁」「成り行き」の積み重ね、なるようにしかならない、ということです。結局、自分の身の丈、自分の実力の範囲でしか仕事はできない。おのずと限界はある。それでも、なるようにはなる。禅問答のようですが、「なるようにしかならないが、なるようにはなる」と思っています。

僕が何よりも大切にしたい生き方・働き方は、前述したこれまでの人生の中で培ってきた価値基準です。それに忠実に「こういう仕事をしたい」「こういう仕事はしたくない」というものを決めていければと考えています。

それと同時に、何年も先のキャリアプランや戦略・方針を立てるのではなく、その時点の自分がどの方向に行きたいのかという自分の内なる声や感覚にも耳を澄ませていきたいです。

■【第3の条件】決して、崖っぷちでもズルをしてはいけない

苦しくなったら「時空間を飛ばす」

崖っぷちで頼りになるのは、じっと「待つ力」。いつか窮地を脱する

人生にはいい時間も悪い時間も平等に訪れます。どんな仕事であれ、誰しもミスを犯してしまうものです。僕もかつて取り返しのつかない失敗をしてお世話になっている方に大迷惑をかけるという痛恨の出来事がありました。

【図表】人生の分かれ道 幸せになる人はどっち?

人の真価が出るのはそうしたピンチの場面。当時、大きなショックとダメージを受けた僕は、なんとか汚名返上しようとしましたが、かえってダメージが大きくなる悪循環にはまり、自滅状態に。まったく正しい判断や行動ができなかったのです。そんなとき、ある書籍に出合いました。失敗学の権威である畑村洋太郎さんの『回復力 失敗からの復活』(講談社現代新書)。畑村さんは書いていました。「人間は失敗直後に正しい対応を取ることはできない。エネルギーが戻ってくると自然と困難に立ち向かえるように人間はできている。エネルギーが抜けている状態のときにじたばたするのがいちばんよくない。遠回りのようでも、エネルギーが戻ってくるのをひたすら待つのが最善の策」

崖っぷちで頼りになるのは、じっと「待つ力」。目の前のできることを淡々とやれば、そのうちに時間は必ず過ぎていく。この言葉に救われ、ようやく窮地を脱することができました。その著書にはこんなフレーズもありました。「一時的な退避はよいが、ズルやウソをつくのは絶対にいけない」

ドキッとしました。その大失敗の際、恥ずかしながら保身のためのズルを画策していたのですが、畑村さんの言葉で踏みとどまることができたのです。ある程度の間、まぶたを閉じていれば、時間の経過の中で失敗を冷静に受け止められるようになるのです。

その後、こうしたもともと人に備わっている回復力を引き出すカギは、「脱力力」だと考えるようになりました。

あのチャップリンが残した「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という名言。ちょっと引いて、自分と自分の状況を俯瞰する。この視点転換が「脱力力」の肝なのかもしれません。

そんな僕が試練を迎えていると感じたときや、心にゆとりがなくなったと感じたときに意識的によくやるのが「時空間を飛ばす」という方法です。

自分よりもっと苦境に立っている、飢餓で苦しんでいる人や戦国時代に生きる人などを頭に浮かべる。すると、自分は切腹するまでには至っていない、と冷静な気持ちがよみがえってきます。

あと、僕の経験上、ツラいときは徹底的に堕ちてみるのもありだと思います。仕事や勉強をいったん放棄して遊びほうける。しっかり息を吐き切る。すると、不思議とやる気も自然と湧いてきて、元の自分に戻っているのです。

僕が尊敬する経営者のひとりに松下電器産業創業者の松下幸之助さんがいます。500万部超のロングセラー『道をひらく』(PHP研究所)には松下さん自身が長い時間をかけて練り上げてきた言葉の数々が紹介されています。

目次を見ると「素直に生きる」「志を立てよう」……と、小学校の教員が児童に諭すような言葉が並び、人生や仕事でのさまざまな局面や苦難の場面でどう対処することが望ましいかが平易な表現でつづられています。

読み手からすると「まあ、そうだよね」という反応になりがちなのですが、短い文章の中で選ばれている言葉や言い回しには本当に迫力があります。あるとき、なぜこれほどまでに説得力があるのかを探るべく、松下さんの評伝『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫)を読みました。すると、そこには人間・松下幸之助の負の側面も描かれていたのです。

実はお妾さんがずっといて、共に事業をつくってきた奥様をないがしろにしたこと、経営者としてはある意味健全とはいえ儲けに対して尋常ならざる執着があったこと、時代が変わっていっても過去の成功パターンに執着してどうしても重要な意思決定ができなかったこと、さらに側近社員との確執や自分の子供に会社を継がせたいが、上場企業のためにそう簡単にいかず迷走したこと……。極めて人間くさい松下さんの姿が見えてきたわけです。

最初に『道をひらく』を読んでいた身としてはこの本の読後の感想は「どこが素直な心なのか」とツッコミをいれたくなるような内容です。ところが、僕はこの本を読んだことで逆にますます松下さんへの尊敬の念を強くしました。あれほど偉大な方でも自分の中に大きな矛盾を抱えている。そういう自分だからこそ、本当に気持ちを込めて念じるように「素直な心が大切だ」と説いた。そうやって絞り出した原理原則の言葉だからこそ底力があり、世の中の人々の心に訴えることができたのではないかと思うんです。読者の方におすすめしたいのは、上記2冊をセットで読むこと。読めば松下さんは超人でも聖人でもなく、僕らと同じ人間であり、苦悩や葛藤と格闘した先にこそ、「道はひらく」のだと腹落ちします。

僕も還暦を過ぎ、同年代のビジネスパーソンの中には働き続ける人もいれば、リタイアする人もいます。そうした定年前後や老後の生き様に感銘を受けた方のひとりに俳優の高峰秀子さんがいます。5歳で子役としてデビューし、『二十四の瞳』『浮雲』など300本以上の映画に出演した昭和期の大スターで、俊逸なエッセイストでもありました。いわば大御所で周囲が何でも言うことを聞いてくれ、本人も全能感を持ってワガママに振る舞っても不思議はありませんが、仕事場での無遅刻・無欠勤を貫き、監督の指示通りに演技し“我”を出すことはありませんでした。飾りすぎないこと、背伸びしないことをモットーとしていた高峰さんはこんな言葉を残しています。「引退です、なんていうのはおこがましい。そのうちだれからも必要とされなくなるのだから、そうしたら煙のように消えてなくなればいいじゃない」

これこそが僕の理想の仕事の終わり方です。以前は、引退のタイミングを自分で決めて、それ以降は仕事をしないというイメージを持っていましたが、僕のような仕事では、引退は自分で決めるまでもなく、お客さまが決めてくれる。世の中から相手にされなくなるときがいつか必ずやってくる。そのときが訪れたら、あがくことはせず、きれいにフェイドアウトしようと心に決めているのは、この高峰さんの言葉が胸に刻まれているからです。

■高齢になればなるほど人間のレベルに差が出る

僕が考える「人生の勝利者」とは

もうじき老年期の入り口に立とうとしている僕が今、興味があるのは年齢が少し上の70代世代の思考と行動です。

中でも気になるのが、テレビプロデューサーのテリー伊藤さん。その言動は時に型破りなところがあるように見えて、実はやることなすことに原理原則がはっきりしているのです。松下幸之助さんではありませんが、長い時間をかけて練り上げた独自の価値基準に忠実な教養人とお見受けします。『老後論』(竹書房)はテリーさんが70歳の時に執筆した本です。「この期に及んでまだ幸せになりたいか?」という痛快な副題で、文中には心から共感できるフレーズがちりばめられていました。例えば、「老人になって残っているのは『感性』だ」という部分。健康や体力など、いろいろなものが衰え消えていくなかで、感性だけはますます研ぎ澄まされる。初老の僕にもその感覚がなんとなくわかるのです。

その本にはテリーさん自身があこがれ尊敬している先輩の名前も出てきます。往年のスター井上順さんに関しては、テレビの通販番組に出演している姿を見て、使い回しの安っぽいセットの前で商品を売り込むトークをしながら、求められている役割を軽やかにこなしている。その肩の力が抜けた感じがたまらなくカッコよく「人生の勝利者である」と語っています。

テリーさんは「現役のときもほどほどに幸せだったくせに、リタイアしてからもっと幸せになろうとするのは潔くなくてカッコ悪い」といった趣旨も述べているのですが、老後は、前出の感性に加えて、この肩の力の抜けや、潔さがますます重要な意味を持つのではないか、と僕は考えています。一方で強く思うのは、人は70代、80代と高齢になればなるほど露骨なまでに人間のレベルに差が出るということ。年を重ねていくといよいよ知性の勝負になり、高齢化問題の最終的な解は教養にあるように感じられるのです。それまでの蓄積の有無が否応なく試される。その意味で、僕はまだまだ精進が必要なのかな、と肝に銘じる日々です。

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楠木 建(くすのき・けん)
一橋大学大学院 国際企業戦略研究科教授
1964年生まれ。89年、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部助教授、同イノベーション研究センター助教授などを経て現職。『ストーリーとしての競争戦略』『すべては「好き嫌い」から始まる』『逆・タイムマシン経営論』など著書多数。

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(一橋大学大学院 国際企業戦略研究科教授 楠木 建 文・構成=大塚常好)

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