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「復元されたお城=価値がない」は間違い…城巡りをする人に伝えたい「鉄筋コンクリ造の名城」ランキング

プレジデントオンライン / 2024年3月2日 9時15分

東南隅櫓から見た大小天守と本丸御殿。2018年4月(写真=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

太平洋戦争末期の空襲により、7つの城の天守が失われた。歴史評論家で城マニアの香原斗志さんは「そのうちの6つの城は、戦後すぐに再建された。すべて鉄筋コンクリート造ながら、旧観をほぼ忠実に再現している城もある」という――。

■明治維新後は70棟以上残っていた天守は、現在12棟

日本の城の象徴である天守。明治維新を迎えた時点で70数棟が残っていたが、維新から間もなく50棟前後が取り壊されてしまった。そのほとんどが二束三文の金額で競売にかけられ、積極的に取り壊されてしまったのである。日本の誇るべき遺産を旧時代の遺物としか見做さなかった明治政府の姿勢が残念でならない。

それでも昭和20年(1945)、太平洋戦争末期に全国の都市が米軍による空襲の標的になるまでは、20の天守が残っていた。しかし、現存する天守は12にすぎない。じつに7棟もの天守が、戦災によって失われてしまったのである(さらに戦後、火災で北海道松前町の松前城天守が焼失した)。

日本の主要都市の大半は、空襲によって焼け野原になった。とくに47都道府県の県庁所在地の7割以上はかつての城下町で、その中心部は城があり、空襲に襲われるとひとたまりもなかった。米軍は密集する市街地に向け、焼夷弾攻撃を執拗(しつよう)に繰り返したからである。

焼夷(しょうい)弾とは、燃焼力が高いゼリー状のガソリンを詰め込み、それをまき散らして周囲を焼き尽くす爆弾で、そもそもアメリカで、日本の木造家屋を効率よく焼き払う目的で開発されたものだ。無差別攻撃のためのとりわけ非人道的な兵器で、米軍機はこれを、木造家屋が密集している市街地をねらって落下させたのだからたまらない。

焼夷弾から飛び出した油脂は90メートルも飛んだといわれ、城郭とそこに遺されていた建造物もまた、火焔(かえん)の波に包まれることになった。

■日本の木造建築史に残る建築物

最初に失われたのは名古屋城天守(名古屋市中区)だった。徳川家康の命で建てられ、木造による本体だけで高さが36.1メートルと、三代将軍家光が建てた江戸城(東京都千代田区)、徳川幕府が再建した大坂城(大阪府中央区)に次ぐ規模で、延べ床面積は史上最大という、日本の木造建築史上の最高峰のひとつだった。

昭和20年5月14日未明、名古屋は大空襲に見舞われた。このとき天守には金の鯱を避難させるための足場が組んであり、そこに焼夷弾が引っかかって火が上がってしまったという皮肉な話が伝わる。これを皮切りに天守の受難は続いた。

6月25日未明には岡山市内が大規模な空襲を受け、関ヶ原合戦以前に宇喜多秀家が建てた、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や豊臣秀吉の大坂城の天守の面影をとどめる岡山城天守が焼失した。

7月9日には、紀州徳川家の居城だった和歌山城(和歌山県和歌山市)の天守が全焼した。江戸末期の再建ながら、江戸初期の優美な様式をとどめる気品ある天守だった。

■大型の天守ほど消失した

7月29日には大垣城(岐阜県大垣市)の天守が焼けた。元和6年(1620)に大きく改修されたこの天守は、石田三成が関ヶ原合戦で大垣を拠点にしたとき、すでに建っていた可能性がある。8月2日の水戸空襲では徳川御三家の居城、水戸城(茨城県水戸市)の三階櫓(事実上の天守)が焼失。

そして8月6日、原子爆弾の爆風で広島城天守が倒壊した。毛利輝元が建てたその外観は、秀吉の大坂城を模したとされ、建築年代が岡山城より遡る可能性がある貴重な建築だった。とどめは8月8日の深夜で、広島県福山市が火の海となって福山城天守が焼失。元和8年(1622)に建てられ、合理的な構造をもつ天守の完成形といわれた建築だった。

現存12天守は小ぶりのものが多いが、戦争で失われた天守は大型で、価値も高いものが多かった。

現存12天守で県庁所在地にあるのは、松江城(島根県松江市)、松山城(愛媛県松山市)、高知城(高知県高知市)の3つだが、先の戦争で失われた天守は7棟のうち5棟が県庁所在地に存在した。

江戸時代に大藩の拠点で大型の天守が建ち、その後も大規模な都市であっただけに、米軍の標的になったのである。

■なぜ木造ではなくコンクリート造なのか

だが、戦災で失われた天守7棟のうち、水戸城三階櫓を除く6棟は、戦後20年あまりのうちに再建された。戦前にはすでに、天守は地域のシンボルと認識されていた。だから、戦後復興の象徴として再建話が起こったのは自然なことだった。ただ、空襲などの記憶がまだ生々しい時期だったので、二度と焼失しないように、という願いから、耐火性能を意識して木造は避けられ、すべてが鉄筋コンクリートによる外観復元だった。

だが、外観「復元」といっても、どの天守も同じように「復元」されたわけではない。天守ごとに「出来」の差は小さくなかった。再建された順にみていきたい。

第1号は広島城天守で、昭和33年(1958)3月に竣工(しゅんこう)した。原爆で倒壊しただけに当初は地元の思いも複雑で、再建構想が持ち上がったとき、広島県文化財専門委員会では反対意見が多数を占めた。

広島城天守閣(2012年11月撮影)
広島城天守閣(2012年11月撮影)(写真=長岡外史/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

「原爆で廃虚になった広島城の姿にこそ文化財としての価値がある」というのが、主な理由だったという。だが、最終的には前向きに再建する方向にまとまっている。

広島城の場合、戦前に国が作成した実測図が残っており、細部のデザインや寸法は古写真や同時代の建造物を参考にできた。結果、鉄筋コンクリート造ながら外壁には下見板など木材が張られ、とくに5階の外観は柱や軒裏の垂木、華灯窓まで木材でていねいに再現された。コンクリートを茶色く塗って木部に見せている「復元天守」も多いのである。

惜しむらくは、かつて南側の小天守(明治期に取り壊された)と連結していた廊下の切断面に下見板が張られ、窓がもうけられたこと。廊下を切断した面なので、戦前は白漆喰を塗ってふさいでいた。そこに板を張って窓までもうけると、最初から大天守が独立していたように見え、史実から遠ざかってしまう。

■高い水準で復元された和歌山城

続いて昭和33年(1958)10月、和歌山城天守が完成した。設計したのは東京工業大学教授だった藤岡通夫氏で、残されていた平面図のほか、旧天守を設計した水島家に残っていた立面図や断面図、藤岡氏自身が焼失前の天守の細部を撮影した大量の写真などを、徹底的に解析したという。

和歌山城 本丸御殿跡から望む天守
和歌山城 本丸御殿跡から望む天守(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons)

この天守は築造技術が未熟な古い石垣上に建てられ、1階平面がかなりいびつな不等辺四角形だ。しかし、二重目から上はゆがみが矯正され、かなり複雑な造形である。

そこで藤岡氏は、先に木造建築の結成図を作成。後年、「鉄筋コンクリート造の建物を最初から設計すると、木造としての制約を忘れて設計しかねない。(中略)面倒ではあったがまず木造として建物を設計し、それを下敷にして中身を鉄筋コンクリートに置き変える方式をとることにした」と回想している(『城と城下町』)。

こうしてていねいな作業が重ねられた結果、外観の再現度はかなり高い。しかし、和歌山城のような高い水準で外観が「復元」されることは、多くはなかった。

昭和34年(1959)4月に竣工した大垣城天守は、最上階の窓の形状が変更された。焼失前、最上階の窓には外側に漆喰が塗られた引き違いの土戸があり、全開にしても窓の半分は白い面で覆われていた。

しかし、「復元」天守では土戸が省略され、開口部を広くとってはめ殺しのガラス窓になった。眺望のよさを優先したのだ。また、破風は史実では確認できない金色の飾りで装飾された。大垣城では、より立派に見せることが優先されたのだ。

■岡山城の復元工事で行われた暴挙

昭和34年(1959)10月には名古屋城天守が完成した。戦前の実測図のほか、ガラス乾板写真が多数残され、かなり正確な復元が可能で、おおむね実現されたが、細部に違いが生じた。目立つのは最上階の窓で、大垣城と同様に土戸があったのに再現せず、眺望を優先してはめ殺しのガラス窓にしてしまった。

また、一重目から四重目の窓はみな格子窓だが、やはり外側に土戸があり、閉めると外観は真っ白になった。じつは江戸時代は、これがすべて閉められていることが多かった。ところが土戸が省略されたため、いまの名古屋城天守は窓を閉め切っていても、全開時と同じ姿をしている。

少し遅れて昭和41年(1966)11月、岡山城と福山城の天守がほぼ同時に竣工した。

まず前者は、外観は旧状どおりという建前だが、イメージはだいぶ異なる。まず最上階は、戦前の天守はいまより白壁の面積が大きい。屋根の勾配も焼失前のほうが反りは大きく、躍動感があった。天守西側に付蔵する塩蔵の窓も増えてしまった。

岡山城復元天守(北西方向より)
岡山城復元天守(北西方向より)(写真=レゲマン/GFDL/Wikimedia Commons)

だが、もっと大きな問題がある。天守台に穴蔵がなく、すなわち地階がないので、焼失前は西側の塩蔵が天守の入り口だったのだが、再建に際して石垣の南面を崩し、強引に地階をもうけて入り口にしてしまったのである。失われた文化財を再現するために、残された文化財を破壊し、史実と異なる姿に変更するという暴挙が行われたのだ。

最後に福山城だが、「復元」に際してプロポーションこそ再現されたが、すべての窓に巻きつけられていた銅板は省略され、最上階の窓の位置は大きく変更され、欄干は神社の橋のように朱色に塗られてしまった。

また、戦前までは、防御上の弱点である北側一面に鉄板が張られた唯一無二の天守だったが、これも省略され、戦前の姿とはまるで違う印象になっていた。

福山城天守
福山城天守(写真=Jnn/CC-BY-2.1-JP/Wikimedia Commons)

■「復元天守」の再現度に順位をつけると…

というわけで、これら6棟の外観復元天守の再現度に順位をつけると、竣工された時点では、以下のとおりだった。1位が和歌山城、2位が広島城、3位が名古屋城、4位が岡山城、5位が大垣城、6位が福山城。

しかし、近年、まず大垣城の外観が変更され、最上階の窓が戦前と同じ形状になり、豪華な装飾も取り除かれた。

そして令和4年(2022)には、福山城の外観も戦前に近い姿になった。北側には鉄板が張られ、真っ黒い壁面が戻った。真っ白に塗られた窓も銅板を巻いたように見えるようになった。最上階の色彩や窓の位置などもオリジナルに近づけられた。

歓迎すべきことだが、ただし完璧とまではいえない。鉄板こそ本物が張られているが、銅板が張られた窓枠や格子はアルミで再現され、最上階に露出した木部は、コンクリートを茶色く塗ってそれらしく見せている。

これらの変更を踏まえて順位をつけ直せば、1位が和歌山城、2位が広島城、3位が福山城、4位が大垣城、5位が名古屋城、6位が岡山城、といったところだろうか。

これらコンクリート造の天守は、名古屋城をはじめ老朽化が進み、木造での復元が検討されているものもある。その際、外観は忠実に再現されているのだから、わざわざ木造にする必要はないのでは、という声も聞かれる。

だが、どこまで忠実に再現されているのか、まずは天守ごとの違いを把握してみてはいかがだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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