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母の愛を確かめる方法が他になかった…小6少女が死に物狂いで作文コンクールに応募し続けた切ない理由

プレジデントオンライン / 2024年3月23日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

ノンフィクション作家の菅野久美子氏は小学生の頃から作文コンクールや新聞の投書欄に応募し、6年生のときには自作の童話が新聞に掲載された。自分で書いた文章をさまざまなコンクールに強迫的なまでに応募し続けたのは、毒母からの虐待生活を生き延びるための唯一の方法だった――。

※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■母と一体になれた作文コンクールの受賞

ある日、私に大きな転機が訪れた。それは学校から届いた何かの作文コンクールの応募用紙だった。その用紙を目にした母に言われるがまま、小学生の私はそれに応募することになったのだ。

「お母さんの言うとおりに書きなさい。そのまま書けばいいからね」

記憶があやふやなのだが、はっきりと覚えているのは、眠い目をこすりながら夜中まで、母の言うままに400字詰め原稿用紙に鉛筆を走らせたことだ。

真っ暗闇の中、煌々と灯ったオレンジ色の電灯の光が、私の瞼(まぶた)に今も焼きついている。

眠くて記憶がなくなっていたが、朝起きると原稿用紙にはしっかりと文章ができていた。それは、母がほぼ書き上げたといっても過言ではなかった。

母は結婚する前までは国語教師で、特に作文指導が得意だった。

私はその作文コンクールで大賞を取り、全校児童の前で表彰された。家に帰ってそれを告げると、母は飛び上がって私を抱きしめた。断っておくが、その文章の8割近くは母が考えたものだ。だから今思うと、この行為は何とも後ろめたい思いでいっぱいである。

しかし実際のところ、当時の私には罪悪感なんて微塵もなかった。だって、あの母が喜んでいるのだから。それはイコール母が認められたことに等しかった。むしろ母がつくった文章であることが、母と私が一体になれた気がして、無性に嬉しかった。

そのとき、母は「これだ!」と思ったに違いない。世の中を見返すときがやってきたのだ。文才のある娘という、打ち上げ花火を使って――。

■母のトクベツになれた日

それからというもの、私は母に言われるままに原稿用紙に鉛筆を走らせた。そんな事情など知る由もない担任の先生も喜んで、私に全国規模の作文コンクールの情報を頻繁に持ってくるようになった。最初、その文章のほとんどは母が書いていた。そのうち文章のテクニックがつかめてくると、しだいに私が書いた文章を母が添削するだけになった。

そして、私は次々に作文コンクールに応募しては、総なめにしていった。大賞や最優秀賞を頻繁に取ることはさすがに難しかったが、佳作や優秀賞には引っかかるようになったのだ。

作文コンクールで入賞するたびに母は狂喜した。そして、私をこう鼓舞するのだった。

久美ちゃん、もっともっと、たくさん賞を取るの。そうして、お母さんを喜ばせて。そして、耳元でとっておきの一言を囁いた。

「久美子は、お母さんの血を引いているのね――」

その言葉は何よりも私を歓喜させた。そして、気が付くと目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。私は、お母さんの血を引いている――。私は母の「トクベツ」なのだ。ずっとずっと母に自分を見てほしかった。その母が今、私を見ている! 私を見てくれている! 大事にしてくれている。私は、お母さんの身代わりになる。お母さんが生きられなかった人生を生きる。だから、お願い。私をもっと見て!

文章をうまく書けると、母に褒められる。そして母に褒められるためには、文章をもっともっとうまく書いて、いっぱい賞を取らなければならない。私はそう決意した。

■条件付きの愛しか与えられなかった

考えてみれば、私はいつだって中途半端だった。

いろいろやった習い事も、どれ一つとして秀でたものはない。飛び抜けてスポーツの才能があるわけでもないし、習字を習っても一度として賞を取ることもなかった。それどころか勉強の世界では、どうやっても太刀打ちできないクラスメイトがうようよいることを思い知らされていた。

だけど文章の世界は違う。これは、私だけに与えられた才能なのだ。私の家の居間には見る見る間に、ピカピカの盾が並び、賞状が増え、額縁に入れても飾る場所がないほどになった。私が賞を取るたび、母は祖父母のみならず、ご近所のハイソなママ友たちに、私が「自慢の娘」であることを触れ回るようになっていった。

じつは、ときを同じくして弟も作文にチャレンジしたことがあった。しかし、その結果は無残なものだった。弟の作文は箸にも棒にもかからなかったのだ。同じきょうだいでも、弟は文章の才能はまったくなかった。そもそも、母を喜ばせようというモチベーションがないので、やる気がないのだ。私のようにがんばらなくても、弟は母から無条件に愛される存在だった。そう、生まれたときから――。

男の子というだけで無条件に愛される弟。弟と違って、私には条件付きの愛しか与えられなかった。だから私は、死に物狂いで、母の愛を勝ち取るしかなかった。だから一日一日が、私にとっては生死を懸けたサバイバルそのものだった。

■もっと母に褒められたい

考えてみれば、幼稚園のとき、私は母の身体的虐待から生き延びることに精いっぱいだった。少しずつ体が大きくなったこともあり、命にかかわるような虐待は減っていった。それでも、私が生き延びる努力をしなければならない状況は何も変わらなかった。

私は必死だった。母にもっともっと褒められたい。がんばったね。偉いねと、頭を撫でてもらいたい、抱きしめてもらいたい。その一心でとにかく作文を書き、いろいろな賞に応募しまくった。書き続けることは子どもの私にとって、最後の命綱だったのだ。

私は、確かに普通の人よりも少しだけ文章の才能があったと思う。しかし、それは飛び抜けた才能ではなかった。だからこそ、そこには並々ならぬ努力が必要でもあった。

何百、何千の応募を勝ち抜き、母の寵愛を得るのは、けっして簡単ではないのだ。どれだけ時間をかけて書いた文章でも、あっさりと落選してしまっては意味がない。

打率は5割だった。しかも、小学生向けの作文コンクールは頻繁に開催されているわけではない。私は母の関心を、つねにつなぎ留めておかなければならないのだ。

私は焦っていた。

■生き延びるために必死だった

そんな折、朝刊に目を落としていた母が私に話しかけた。

「久美子は、それだけ文章がうまいんだから、新聞の投書欄に投稿してみたら?」
「えっ?」

母の言うことには、すべて従うしかなかった。

新聞の投書欄とは、読者が自分の主張・意見を人に理解してもらうために書いた文章を掲載するコーナーのことで、たいていどの新聞にも、この投書欄が設けられている。投書欄は、社会問題を論じたり、日常に起こったほっこりした体験を綴ったりとテーマは何でもよくて、一般人のミニエッセイのようなものである。

私は母の勧めで、作文コンクールと並行して、これらの新聞への投書をするようになった。作文コンクールと違って、基本的に新聞の投書欄は年中募集している。それがよかった。

我が家は、とにかく新聞を大量にとっている家庭だった。母が、新聞を読む子は頭がよくなると信じていたせいだ。地元紙、朝日新聞、読売新聞、子ども向け新聞など、多いときには合計4紙もとっていた。我が家のポストは新聞紙でふくらんで破裂せんばかりだった。

私は毎日届く各新聞の投書欄を読み込み、どんな文章が求められているのか徹底的に「研究」し、その傾向と対策をひねり出した。大人が投書する内容と、子どもが投書する内容は少しだけ違う。

私は、子どもが投書欄に投稿するときの大まかな傾向をつかんだ。そして大切なのは、子どもっぽさや素朴さ、真っすぐさだということに気づいた。特に最近の社会問題や学校生活の矛盾を取り上げて、あくまでピュアな子どもの視点で論じることがウケると理解した。

特に子どもっぽさをわざと演出した文章を意識して投書を続けた。私は子どもである自分に何が求められているのか、わかっていたのだ。今考えると、かなり小利口な子どもだった、と思う。

いや、小利口というより、とにかくいつだって私は、自分が生き延びるために必死だったのだ。

積み重ねられた新聞
写真=iStock.com/Wako Megumi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wako Megumi

■すべては母を喜ばせるために

しかしいくら研究を重ねても、そう簡単に新聞掲載されるわけはない。特に朝日新聞や読売新聞は倍率が高い。だから、いくら応募しても掲載されないこともあった。

だが、それでも地元紙の場合はチャンスがあった。しかも、地元紙は近所の住人たちが購読している確率が高く、母にとってはある意味、全国紙よりもネームバリューを持っていた。

その目論見と効果はてきめんで、私が投稿した文章は、次々と新聞掲載を果たしていった。

ダイニングテーブルに置かれた小さなライトの下、私は無我夢中で寝る間も惜しんで原稿用紙に向き合っていた。母はそんな私を見ると、「がんばってるわね」と猫なで声をかけ、うっとりとした表情を浮かべた。さらに機嫌がよければ、お手製のココアを入れてくれたりした。そんな私に休みはなかった。

土日は溜まった新聞を隅から隅まで読み込んだ。今、社会でどんなことが起こっているのか、そしてそれに対してどう思うか。自分なりのロジックを組み立てるためだ。いわば、ネタの収集をしなければならないからだが、ほかの小学生たちが投稿した文章も大いに参考にした。彼らは私のライバルだった。

学校での作文コンクール、企業が主催するコンクール。新聞投書――。

私は母の期待を一身に背負っていた。すべては母を喜ばせるため、すべては母の注目を集めるため。それ以外に私に生きる意味なんて、どこにもなかった。

■母と私のつながりの証し

この頃から母は新聞投書や作文コンクールでは飽き足らず、私に毎月、「公募ガイド」を買い与えるようになっていた。

公募ガイドとは、賞やコンクールなどの公募情報を集めた雑誌のことである。ズシンと重いその雑誌には、エッセイや小説、ノンフィクションなどさまざまな賞の公募リストが掲載されている。

天才童話作家のような存在に子どもを仕立てるには、大人向けの賞に応募してその選考を勝ち抜かなければならない。母は、おそらくそう考えたのだろう。それは小学生を対象にした作文コンクールとは比較にならないほど超難関なのだが、母は一人で舞い上がっていた。

「あんたも、竹下龍之介くんみたいになるのよ! だってあんたには、お母さんから譲り受けた文章の才能があるんだから!」

母は、事あるごとに私にそう言ってハッパをかけた。竹下龍之介くんというのは、弱冠6歳で『天才えりちゃん 金魚を食べた』を書いて時代の寵児となっていた天才童話作家だ。母の期待がいかに熱いか、私は嫌というほど思い知らされた。それが大きなプレッシャーだったのは事実だ。

その一方で、私はこの母の言葉が正直嬉しかった。経済学部卒で理数系の父は、文章はてんでダメだった。しかし、国語教師だった母は、幼少期から文章がうまかった。

文章は、母から授かった才能。母と私のつながりの証し。

これは弟にも父にもない、唯一無二の才能なのだ。私は「母のトクベツな存在」であることに喜びを感じていた。愛に飢えていた私にとって、それが唯一のアイデンティティだったからだ。条件付きの愛でも、私は母に愛されたかった。そのためには、どんなことでもしようと心に決めていた。

母は、周囲に自慢できる材料を切実に欲していた。私は母の格好の打ち上げ花火であり、手ごまだった。

私の投稿した文章が新聞に載ると、母は隣近所にその新聞を持って触れ回り、そしてその週は必ず車を走らせて、ルンルン気分で祖父母の実家へと向かった。娘の手柄は自分の手柄なのだ。

祖父母に褒められる私の姿を見ている母は、とても誇らしげで満足そうだった。まるで自分自身が褒められているかのように満面の笑みがこぼれていたのを、私は今も忘れることができない。私は、この母の笑顔を追い求めていたのだ。

しかし、私と龍之介くんが決定的に違ったのは、残念ながら私は母の望んだ「天才」ではなかったことだ。私は、文章が少しだけ人よりうまいだけの、ただの平凡な小学生に過ぎなかった。

それを立証するかのように、大人向けの賞に私がいくら応募しても、よくて佳作どまり。そのため、作文コンクールのようにはうまくいかなかった。

■小学6年生の新聞デビュー

ちょうどその頃、宮崎の地方紙である宮崎日日新聞に「童話の部屋」というコーナーがあることを知った。「童話の部屋」は、一般の人から公募で自作の童話を募り、選考で選ばれればイラスト付きで掲載されるミニコーナーだ。

文字数の限られる投書欄と違って「童話の部屋」はとりわけ紙面でもその取り扱いが大きかった。私は母の勧めもあってこの「童話の部屋」にチャレンジすることになった。

「童話の部屋」に、はじめて掲載されたのは小学6年のときだった。

「久美子が新聞に載ってるぞ!」

朝、寝ぼけ眼で顔を洗っていたら、ひときわ大きな声で、父が私を呼んだ。父が開いている新聞の文化面の「童話の部屋」には、確かに「菅野久美子 小学6年生」という太文字が並んでいる。私は、ガッツポーズをした。

当時、「童話の部屋」は、大人たちの独壇場だった。この紙面をつくった記者は、およそ子どもから応募があるとは想定していなかったはずだ。だから私の原稿が選考を勝ち抜き掲載されたのは、原稿がほかに比べて秀でていたからではなく、物珍しさという面が大きかったと思う。しかし、そんなことは私は十分承知していた。

とにかく、私は「童話の部屋」でデビューを果たした。そのときの母は、これまでにもなく喜び勇んでいたと思う。母は親戚や近所の人たちに次から次に電話をかけまくって、興奮気味にすべての人たちに同じことを電話口でまくし立てていた。

「今日の宮日にうちの久美子が出てるから、見て! すごいでしょ!」

日本中が注目する「天才童話作家」にはほど遠かったが、私は母の自尊心を満たすことはできたようだ。

■懸命に母の関心を引き続けた

それからも私は「童話の部屋」や各新聞の投書欄、そして作文コンクールにも応募を続けた。そうして高確率で、紙面に掲載されたり入賞したりした。打率は着実に上がっていったのだ。

しかし、そんな日々がルーティーンとなるうちに、いつしか私は強迫的なほどにのめり込み、追い詰められていった。

「明日の朝、新聞に載っているだろうか」

そう考えると、ドキドキして眠れなくなるのだ。

そして新聞配達の音がやたら気になって仕方なかった。誰もが寝静まっている真っ暗な早朝、ガチャンと新聞がポストに投函(とうかん)される音を聞くと、ハッと目が覚めてしまう。

ベッドから急ぎ足で駆け出し、ポストから一目散に新聞を取り出すと、まず「投書欄」と「童話の部屋」に目を通すようになった。

そこに自分の名前を見つけると嬉しくて、母を起こしに行った。逆に原稿がどこにも掲載されていないことがわかると、立ち直れないほどに気落ちした。そして、そんな自分を奮い立たせ、何がダメだったのか懸命に分析を重ねた。

とはいえ、そんな日々もある意味エキサイティングではあった。母の関心は、弟から「天才」かもしれない私へと移りつつあったからだ。私は、そうやって懸命に母の関心を引き続け「天才」のふりを続けた。

■天才のふりをしたピエロ

しばらくは順調だった。私の原稿が幾度となく、この「童話の部屋」に掲載されたからだ。

しかしある日、とんでもないことが起こってしまう。それは突然のことだった。いつものように、「童話の部屋」を開くとなんと小学4年生の子どもの作品が掲載されていたのだ。母の顔は曇り、途端に不機嫌になった。私は焦りで頭の中が真っ白になった。

私は当然ながら、「天才」なんかではない。必死に「天才」の真似をしているピエロなのだ。私の武器は、ただ一つ、「子ども」であること、そして、人より文章がうまいこと。

菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)
菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)

たったそれだけ。平凡な私には、「子ども」であること以外には強みがないことは痛いほどによくわかっていた。幼さは、世間さえも動かす強力な武器なのだ。

それからというもの、「童話の部屋」には「どこかの小学4年生」が頻繁に掲載されるようになっていった。

全身の力が抜けて、いったいどうしたらいいのか、わからなくなった。母の失望の眼差しは、暗にお前は不要だと告げている。そんな母の視線が怖くて、パニックになる。私はいらない子どもなんかじゃない――。絶対、そんな子なんかじゃない――。自分で自分に言い聞かせ、己を奮い立たせた。そして、これまで以上にさまざまな媒体に応募を重ねていった。

私はいつだって自分の中の少女を抹殺し、愛すべき母のために、死に物狂いで奔走してきた。母の期待に応えられない私は、存在価値なんかなかった。生きている意味なんてないのだから。

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菅野 久美子(かんの・くみこ)
ノンフィクション作家
1982年、宮崎県生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像学科卒。出版社で編集者を経てフリーライターに。著書に、『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』(毎日新聞出版)、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)、『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)、『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)などがある。また、東洋経済オンラインや現代ビジネスなどのweb媒体で、生きづらさや男女の性に関する記事を多数執筆している。

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(ノンフィクション作家 菅野 久美子)

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