だから「いいとも!」は32年続く長寿番組になった…タモリの運命を変えたプロデューサーからのひと言
プレジデントオンライン / 2024年4月7日 12時15分
※本稿は、太田省一『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■フジテレビから始まった漫才ブーム
1980年代初頭に突如巻き起こった爆発的な漫才ブームは、単なる演芸ブームというだけでなく、社会のコミュニケーションモードを漫才風に変えてしまうようなある種の革命だったと言える。
「ボケ」「ツッコミ」「キャラ」「フリ」といったような芸人の世界の専門用語が一般人のボキャブラリーになり、笑えるかどうかを基準に私たちはコミュニケーションの良し悪(あ)しを判断するようにさえなった。そしてその中心にあり、影響力をふるったのがテレビ、特にフジテレビだった。
ブームのきっかけとなったのは、「花王名人劇場」(1979年放送開始。制作は関西テレビ)というフジテレビ系列で放送された番組だった。これはさまざまな芸能の名人芸を紹介する演芸番組で、落語もあれば、『裸の大将放浪記』(1980年放送開始)のようなドラマを放送することもあった。漫才もそうした番組コンセプトのなかの一企画として放送された。それが1980年1月20日放送の「激突!漫才新幹線」である。
出演したのは、横山やすし・西川きよし、星セント・ルイス、そして若手代表としてB&Bだった。するとこの企画が15.8%と、他の回に比べ突出した高視聴率をあげる。そこから、「花王名人劇場」だけでなくフジテレビを中心に各テレビ局が漫才特番を組み始め、それらがことごとく人気を呼んだ。漫才ブームの始まりである。
■『オレたちひょうきん族』が起こした戦争
B&Bをはじめ、ツービート、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしおなど若手漫才コンビが大挙出演して各自のネタを披露する特番「THE MANZAI」(フジテレビ系、1980年放送開始)は最高視聴率32.6%(1980年12月30日放送回)を記録、ブームを象徴する番組となった。
そして漫才ブームは、一大お笑いブームとして、漫才コンビだけでなく、ピン芸人など他の芸人が人気者になる扉をも開くことになる。
その拠点となったのが、新たなスタイルのバラエティ番組である。1981年にスタートした『オレたちひょうきん族』は、その代表だ。先述の人気漫才コンビのメンバーに加え、落語家でありタレントとしてすでに関西から東京に進出していた明石家さんまが、この『ひょうきん族』をきっかけに一躍全国区の人気者へと躍り出た。
そしてそのさんまとビートたけしが掛け合いを繰り広げる「タケちゃんマン」、当時の人気音楽番組「ザ・ベストテン」(TBSテレビ系、1978年放送開始)のパロディ「ひょうきんベストテン」といったコーナーが評判となり、番組も人気になった。
「はじめに」でふれたように同じ土曜夜8時台の長寿バラエティ番組、ドリフターズの『8時だョ!全員集合』と熾烈な視聴率競争を繰り広げた「土8戦争」は、テレビ全体に活気をもたらした。
■プロデューサーが抱いていた不満
これら「THE MANZAI」や『オレたちひょうきん族』のプロデューサーだったのが、フジテレビ(当時)の横澤彪である。その横澤が次に企てたのが、お昼のバラエティ番組だった。
元々フジテレビには、昼の生放送による帯バラエティ番組の伝統があった。たとえば1960年代には、前田武彦やコント55号が出演した「お昼のゴールデンショー」(1968年放送開始)が人気だった。
この番組は、東京・有楽町にあった東京ヴィデオ・ホールからの生放送。前田武彦は放送作家出身で、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系、1968年放送開始)の司会などで活躍した人気タレント。萩本欽一と坂上二郎がコンビを組むコント55号は当時売り出し中で、この番組でもコントを披露し、さらに人気を加速させていった。
そして1980年代に入ると、B&B、ツービートら漫才ブームの人気者たちが出演する「笑ってる場合ですよ!」(1980年放送開始)が始まった。基本になるフォーマットは、後の「いいとも!」と同じ。開業したばかりの新宿スタジオアルタから、月曜から金曜までの生放送。
総合司会はB&Bで、各曜日のレギュラーにツービートや島田紳助・松本竜介、さらに落語家の春風亭小朝、明石家さんまなどが起用された。いわば、旬の人気若手芸人総出演という趣があり、その点でも「いいとも!」の原点となった番組である。
ただ、この番組でもプロデューサーを務めた横澤彪は、あるときから不満を抱くようになっていた。その理由は、「知性の欠如」だった。
■若手人気芸人は初歩的な笑いしか生まない
「笑ってる場合ですよ!」もスタジオアルタからの生放送ということで、観客が入っていた。しかも、出演者の多くがいまを時めく漫才ブームの若手人気芸人ということもあって、観客も若いファンが多かった。
その結果、ファン心理も手伝って、スタッフや出演者が意図したところで笑うのではなく、ただ滑って転ぶだけでウケるような初歩的な笑いしか生まれなくなっていたのである。
その状況は、「笑いというのはパロディーにしろナンセンスにしろ基本は凄く知的なもの」と考える横澤にとって、受け入れがたいものだった。
そこで横澤は、新番組を立ち上げてもう一度知性を感じられるバラエティ番組をつくろうと決心することになる。そしてそうした知的笑いを担ってくれる肝心の人材は、「タモリしかいないんじゃないか」と横澤は考えるようになっていた*2。
だが、タモリに対し、夜な夜なスナックで仲間内だけの怪しい宴を繰り広げる「密室芸人」のイメージしか持たない周囲からは、「夜のイメージが強い」「客前で出来ない」「アドリブがきかない」「主婦には受けない」など否定的な意見が多かった。
だがそれでも、知的笑いにこだわる横澤は、それらの反対を押し切った*3。
■髪型はセンター分けから七三に
もちろん横澤をはじめ番組スタッフも手を拱いていたわけではなく、タモリが「昼の顔」になれるよういろいろと工夫をした。事前に横澤は、タモリがメインの夜11時台の深夜バラエティ「今夜は最高!」のチーフ・プロデューサーである中村公一に電話をしている。
横澤の話を聞いた中村は、夜の顔のタモリは出さないように頼んだ。それを受けた横澤は、番組のサブタイトルにわざわざ「森田一義アワー」とつけて「昼の顔」を強調した*4。
また、番組開始当初、誰もが驚いたのが、タモリの髪型と身なりだっただろう。「密室芸人」タモリのビジュアルと言えば、髪を真ん中から分けてべったりと撫でつけ、ティアドロップ型の黒のレイバンのサングラスという正体不明の風貌がお馴染みだった。そしてその見た目が、数々の密室芸の怪しさを増幅させてもいた。
ところが、「いいとも!」が始まったとき、タモリのビジュアルは一変していた。サングラスはそのままだったものの、色は薄めでティアドロップ型とは異なるちょっとおしゃれなかたちのもの。そして髪型はセンター分けではなく七三分けに。
そして服装は、エンブレムのついた紺のジャケット、折り目のついたグレーのスラックスにネクタイを締めている。いわゆるアイビールックである。
もちろん、こうした爽やかさを強調したファッションも、「昼の顔」を演出する一環だった。ただしそれは、ある意味上辺のこと。横澤彪が狙ったのは、昼間の主な視聴者層とされる主婦層に支持されるような無難な笑いではなく、あくまで知的な笑いだった。
■「観客」ではなく「視聴者」を相手にせよ
たとえば、横澤は、当時タモリに「ここ(引用者注:新宿スタジオアルタのこと)の現象だけで笑う客をあてにしてるとギャグが言えなくなるから、テレビ観てる人が何万倍って多いんだから」と言っていたという。
「観客」ではなく、「視聴者」を相手にせよ、と助言したわけである。横澤は、高学歴化が進む世の中で、視聴者のレベルはきわめて高く、演者の感覚さえ上回っていると考えていた*5。そう感じていたのは、タモリも同様だった。
最初タモリは、アルタの観客は「18歳未満禁止」でいきたいと考えていた。それは実現しなかったが、始まって1カ月ほど経った頃の「話題の盛り上がり方が、主婦のペースではない」ことに気づき、「いけるな」と思うようになった*6。
つまり、主婦ではない視聴者層、たとえば昼休みのあいだに職場や食堂で見ているサラリーマン、自室で見ている大学生のような視聴者からの反応が、「いいとも!」を支えたのである。
こうして、外見は世間の“良識”を代表するようなもので主婦層から反発を受けないようにカモフラージュしつつ、「密室芸人」タモリは、なんでもないような素振りで「昼の顔」に収まることに成功したのである。
■タモリは「観察するひと」
しかし、そもそも笑いにおいて知的であるとはどういうことだろうか?
知識や教養がある、言い回しが洗練されている、など答えかたはさまざまだろうが、タモリに関して言えば、それは人並外れて鋭い観察眼ということかもしれない。
彼一流のパロディであれ物真似であれ、その土台にあるのは、あらゆるひとや物事を徹底して観察する力、そこから生まれる独自の発想だろうと思えるからだ。
それで思い出すのは、横澤彪の「人間嫌い」というタモリ評である。横澤がそう思うようになったのは、タモリが撮影した写真展に行った際、「どの写真も暗いトーンで貫かれていて、人間が一人も被写体に選ばれていなかった」ことだった。
人間が好きでその一挙手一投足に興味津々ならば、人間を撮るだろう。ところが、タモリは、人間をいっさい撮っていなかった。そこに横澤彪は、タモリという人物の本質を見たように思ったわけである。
実際、「自分の方へ近寄ってくる人間を無下に退けはしないかわりに、手放しで愛想よく受け容れることもほとんどない。さめた目で相手を見つめている。つねに一線をへだてて応対し、冷静に観察しているといった風である」と、横澤はタモリを評する*7。
言い換えれば、タモリは、きわめてフラット、いわばスーパーフラットに他人と接している。そして、その相手をじっと観察している。ただ、それは単に、相手を突き放し、遠ざけようとしているわけではない。
■自己主張しない司会者像
本当の「人間嫌い」ならば、夜な夜な新宿のスナックで気の置けない仲間と遊び続けることはなかっただろう。タモリが他人と距離を取るのは、あくまで観察にとって必要なものだからである。
観察と言うと無感情のようにも聞こえるが、そうではない。タモリにとって観察は、このうえない歓び、快楽に直結している。楽しいから観察する。それがタモリのなかに一貫する考えかただろう。そしてそれは、「いいとも!」におけるタモリの例の不思議な立ち位置にも通じるように思える。
「いいとも!」での自己主張しない司会は、他の出演者、そして観客を観察しているタモリが傍目にはそう映ったにすぎない。司会を放棄しているのではなく、そういうスタイルでタモリは司会をしているのだ。
その独特の、だがそれこそが番組の長寿の要因になったと思える司会術が見える場面については、本書でもこの後ところどころでふれることになるだろう。いずれにしても、こうして1982年10月4日、「森田一義アワー笑っていいとも!」は始まった。
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社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。
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(社会学者 太田 省一)
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