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インコグニートのブルーイが語る、ブリット・ファンクとアシッド・ジャズの真実

Rolling Stone Japan / 2021年3月30日 18時0分

ブルーイ(Photo by Casey Moore)

インコグニートのリーダーであるブルーイが、DJのジャイルス・ピーターソンと新プロジェクト「STR4TA」(ストラータ)を結成。彼らがリリースした1stアルバム『Aspects』にはすっかり驚かされてしまった。二人はここでブリット・ファンクを蘇らせているのだ。

【プレイリスト】柳樂光隆がブリット・ファンク周辺から選曲「around BRIT FUNK : 1970-1990s」

ブリット・ファンクとは70年代末~80年代初頭、ジャズやファンク、ソウル、ディスコなどを取り入れたバンドによるシーンの総称。後年のアシッド・ジャズに引き継がれるだけでなく、ニューロマンティックやニューウェイブ、ファンカラティーナなど、当時のUKシーンに広く影響を与えた。

ブルーイが率いたインコグニートは、1990年にジャイルスの主宰レーベルであるトーキン・ラウドに参画。ジャミロクワイと共にアシッド・ジャズを象徴するバンドとして知られている。しかし実は、彼らが最初のアルバム『Jazz Funk』をリリースしたのは1981年で、インコグニートはブリット・ファンクの時代から活躍してきたバンドでもあった。ブルーイは他にもブリット・ファンクを代表するバンドに出入りしていた、シーンにおけるキーマンの一人。ブリット・ファンクとアシッド・ジャズを繋いだ人物であるとも言えそうだ。

そこで今回はブルーイに、前史にあたる70年代のブリティッシュ・ファンク、80年代のブリット・ファンク、90年代のアシッド・ジャズ以降について、当時の状況や音楽・文化的背景、各時代の相互関係に至るまで語ってもらうことに。彼が明かしたエピソードの数々には、UKクラブカルチャーの本質が詰まっており、個人的にもさまざまな疑問が氷塊するようなインタビューとなった。ここでの話を踏まえてSTR4TAの音楽を聴けば、そこに込められた意図や文脈の深さがきっと理解できるはずだ。



―STR4TAを始めたきっかけから教えてください。

ブルーイ:実は、僕とジャイルスが40年前に初めて会った時から始まっていたとも言えそうだね。僕らは友人だったし、彼とはいろんなところで仕事してきた。僕はインコグニートとして、彼のレーベル「トーキング・ラウド」と契約していたこともある。でも、ジャイルスが僕らをプロデュースすることはなかったし、アイデアを出し合ったりもしてこなかった。いつも一緒に音楽を作ろうと話していたのにね。だから、それがようやく実現したのがSTR4TAなんだ。

ジャイルスと僕は、昔からイギリスの音楽についてよく話していた。最初はアヴェレイジ・ホワイト・バンド、ゴンザレス、ブライアン・オーガーズ・オブリヴィオン・エクスプレスといった70年代のブリティッシュ・ソウルのシーンについて。その次は70年代末〜80年代初頭に起きたブリット・ファンクと呼ばれるムーブメントについて。当時、僕はそのムーブメントの一員で、ジャイルスは若いDJだった。


ブルーイとジャイルス・ピーターソン(Photo by Casey Moore)

ブルーイ:ブリット・ファンクはアメリカのファンクやソウルへの憧憬とともに、ロンドンのエナジーも聞こえてくる音楽だった。具体的に言うとロックンロール、さらに言えばパンクのメンタリティだね。ブリット・ファンクは若くてイノセントでハイエナジーなユース・カルチャーだった。僕はそのシーンの一員として、フリーズ、ライト・オブ・ザ・ワールド、インコグニートで演奏していたんだ。

僕はシーンにいたからブリット・ファンクの作り方を熟知しているし、ジャイルスはブリット・ファンクのヴァイナルを集めていたから、プロデューサーとして参照点を提示することができた。だったら、僕らでブリット・ファンクのプロジェクトをやったら面白そうだという話になった。それが出発点だね。


インコグニートの1stアルバム『Jazz Funk』(1981年)



―これまで40年も実現しなかったのに、なぜ今なんですか?

ブルーイ:パンデミックだよ。これまでは(ツアーなどで)時間がなくて、なかなか出来なかったからね。ジャイルスは近所に住んでいるから、公園でコーヒーを飲みながら、新鮮な空気とゆったりとした時間の中での会話がすごく心地よかったよ。

―STR4TAというプロジェクト名の由来は?

ブルーイ:宇宙っぽいというか、アウタースペースのイメージだね。この言葉には「雲のレイヤー」みたいな意味もある(※)。ブラウンズウッドの若いスタッフが「Aを4にしよう」と提案してくれたりして、結果的にこうなったんだ。


※筆者注:ブリット・ファンクの重要バンド、アトモスフィアのイメージに近いのかもしれない。上掲のアルバム『En Trance』のアートワーク、代表曲「Dancing in Outer Space」も参照。



―このプロジェクトで音楽的に意識していることは?

ブルーイ:重要視していたのはローファイなサウンド。ジャイルスは「Less is more」とよく言ってたよ。僕らはフュージョンではなく、ストレートなファンク特有の生々しいサウンドを目指すことにした。そのために、昔からブリット・ファンクを知っているミュージシャンと、若いミュージシャンの両方を集めたんだ。STR4TAにとって重要なのは、あの時代のブリット・ファンク・サウンドを作り出すことだった。ジャイルスと僕の使命は、当時のレコーディングや演奏を経験したことのないミュージシャンたちにあの時代の音を教えることだった。

ただし、過去のスタイルに立ち戻ってはいるけど、昔のサウンドをコピーするのではなく、モダンな新鮮さを持たせるように意識している。そのためにもジャイルスの知識とディレクションが必要だった。スタジオの中で「ダブっぽいエコーを加えたほうがいい」「BPMを上げたほうがいい」とか、実際にレコードをかけて「磨きすぎだ」「スクエア過ぎる」「もっと緩く」と指示したりとか、そういうディレクションが効いているからリアルでフレッシュなものになったと思う。

ブリット・ファンクとは何だったのか?

―(ジャケットを見せながら)ところで、この『Slipstream - The Best Of British Jazz-Funk』という1981年に出たコンピレーションはご存知ですか?

ブルーイ:よく知ってるよ! 収録されているのはみんな僕の友達だ。レベル42とインコグニートはジャイルスが初めてインタビューをしたバンドだね。


『Slipstream - The Best Of British Jazz-Funk』(筆者の私物)。ブルーイが参加したフリーズやライト・オブ・ザ・ワールド、フュージョンの人気バンドであるシャカタクなど12組が参加。



―ここに収録されているバンドが活動した、ブリット・ファンクがどんなムーブメントだったのか教えてもらえますか?

ブルーイ:さっきも話したように、ブリット・ファンクはイギリスの若者によるムーブメントだ。全英中で起こっていたけど、ミュージシャンはみんなロンドンに集まってきていた。なぜなら、レコード契約はロンドンで行われるからね。

それにロンドンにはUpstairs @ Ronnie Scottsなどのクラブや、「Caister Soul Weekender」みたいなイベントがあったから、そこで演奏できる可能性もあった。そこには当時のシーンで重要なDJだったロビー・ヴィンセント、クリス・ヒルがいて、彼らが若いバンドの曲をラジオやイベントでプレイして、ミュージシャンたちの扉を開けてくれていた。スパンダー・バレエ(※1)やヘアカット100(※)のように、このムーブメントから影響を受けて、もっとポップなシーンで活躍するバンドもいた。

※1 ブリット・ファンク・バンドのBeggar and Coとのコラボをしていた。
※2 代表曲「Favorite Shirts」などにブリット・ファンクの影響が見られる。



ブルーイ:それにブリット・ファンクは、人種問題を乗り越えたムーブメントでもあった。当時は黒人によるファンク・バンドがいくつもレコード会社と契約することができた。僕がいたバンドも含めてね。いろんな人種が混ざっていたし、黒人と白人のカップルもたくさん生まれていた。ロンドンにはジャマイカ系のコミュニティがあるわけだけど、彼らもブリット・ファンクで重要な役割を果たしていた。親世代から受け継いだレゲエにどっぷり浸かるだけではなく、ジャズやソウル、ファンクを発見しながら、自分たちの世代独自の音楽を作ろうとしていたんだ。


ハイテンションによるブリット・ファンク最初のヒット曲「British Hustle」(1978年)



ブリット・ファンクとは何だったのか?(2)

―ブリット・ファンクは、音楽的にはどんなものだったんですか?

ブルーイ:ハービー・ハンコック、ハーヴィー・メイソン、マイゼル・ブラザーズ、ドナルド・バードといったアメリカのジャズ・ファンクの影響を受けていた。でも、それらは「聴くための音楽」だった。ブリット・ファンクはそうではなく、ファッションやダンスなど、様々な要素が一緒に存在したムーブメントだったことが重要なんだ。

僕がキッズだった頃は、エセックスのキャンベイ・アイランドにあったGold Mine(※)というクラブに何度も足を運んだものだよ。このムーブメントではDJもバンドも同じイベントに出演していたし、一緒にパフォーマンスすることもあった。僕はそれ以前にそんな光景を見たことがなかった。それまでにいたゴンザレスやF.B.I.、サイマンデといったファンク・バンドが演奏するのはベニューやパブだったからね。でも、ブリット・ファンクのバンドはDingwallsやUpstairs @〜のようなクラブで演奏していたからDJとの繋がりが深く、クラブ・カルチャーの一部でもあった。そして、クラブではダンサーが踊っていた。バンドとDJとダンサーがシェイクされることでこのムーブメントが生まれたんだ。

※Gold Mineの様子はこの記事に詳しい。
https://shapersofthe80s.com/tag/gold-mine-club/


Gold Mineにおけるブリット・ファンクの熱狂を記録した動画

ブルーイ:バンドの目的はそこにいる人々を躍らせることで、DJとバンドが一緒になって場を作り上げた。僕らはDJがダンサーを踊らせるのをいつも見ていた。だから、僕らもレコードを作る際には視覚的な発想で曲のコンセプトを考えていた。ダンサーをどう躍らせるか、どうステップを踏ませるか、どういうモーションに導くのか、そのためにはどんなテンポがいいのか。そんなことを考えながら音楽を作っていたってことだね。

そして、音楽とダンスがあれば、必然的にファッションとも繋がってくる。ブリット・ファンクはただのジャンルではなく、同じ傘の下に集まった人たちによるムーブメントであり、君がさっき見せたレコードに入っているのは「ダンサーのための音楽」なんだよ。レベル42のマーク・キングがスラップベースを奏で続け、そこからブレイクしたところでダンサーがスピンして、ストップして、そこで観客が「フゥー!」と盛り上がるわけだ。僕も演奏していたフリーズというグループにしたって、「フリーズ」は「動きが止まる」って意味だったわけだしね。



―80年代のイギリスには、DJがジャズをプレイして踊らせるムーブメントもありましたよね。そのための楽曲を収録した『Jazz Juice』(1985年)『Blue Bop』(1986年)といったコンピレーションの選曲をしていたのが、他ならぬジャイルスだった。そういったDJ主導によるジャズのムーブメントがアシッド・ジャズへと発展していったわけですが、それらのコンピよりも前にブリット・ファンクがあって、バンドとDJとダンスが一緒になったシーンがあったということでしょうか?

ブルーイ:間違いないね。クラブでその(レコードに収録されている)チューンを初めてプレイしたDJなら全員知ってるよ。彼らはアメリカに行って、レア・グルーヴを持ち帰ってきていた。それを僕たちがインフォメーション(情報)として……いや、インスピレーション(影響源)として聴いていたんだ。DJたちはジョニー・ハモンドのような、彼らがプレイしなかったら僕らは知らないままであったであろうレコードを持ち帰っていた。その中には小さなレコード店を始めた連中もいて、おかげで白盤なんかも買えたりした。僕もノース・ロンドンに小さなレコード店を構えていたことがあって、その頃はビルの2階でバンドのリハーサルをして、1階でレコードを売っていたよ。


ジョニー・ハモンド『Gears』(1975年)。マイゼル・ブラザーズがプロデュースしたジャズ・ファンクの名盤。

ブルーイ:あとはとにかく、色々なバンドやDJに出会うため、南から北までたくさん動き回った。DJとミュージシャンが一つになれる場所を見つけては集まり、週末のイベントを開いたりしていたんだ。そのムーブメントがなかったら、ブリット・ファンクはあそこまで大きくなっていなかったと思う。ただのジャズ・ファンクかフュージョンの集まりになっていたかもしれないね。でもブリット・ファンクには、ミュージシャンの背中を押してくれるDJがいた。僕たちにダンスカルチャーを紹介し、新しい領域へと導いてくれたのは彼らだったんだよ。

もしミュージシャンが「踊らせること」を意識していなかったら、演奏しても観客はみんな同じ動きをしていただろう。首を縦に振るだけとかね。でもブリット・ファンクには、スウィングやスピン、ジャンプを見せてムードをとらえ、盛り上げてくれる観客やダンサーがいたんだ。同じ音楽を聴いてみんなが同じ動きをするのではなく、自由に好きな動きをすることができる。その自由さも重要なポイントだったと思うよ。

雑誌の存在も大きかったね。それまでイギリスでは『Melody Maker』みたいな雑誌が売れていたけど、そこに載ってるのはロックバンドの情報ばかりだった。でも、『Echoed Magazine』『Blues & Soul』が出てきたおかげで、ようやくジャズやソウル、ファンクの情報が得られるようになったんだ。


『Blues & Soul』の表紙を飾ったブリット・ファンクの代表的バンド、セントラル・ライン。画像は下記URLより引用。
https://www.raresoulman.co.uk/271033-blues-soul-350-february-23-1982.html



―STR4TAの楽曲「Vision 9」にはフラジリアン・フュージョンのような爽やかなフィーリングも感じられました。ブラジル音楽がブリット・ファンクに与えた影響も大きかった?

ブルーイ:そうだね、キューバやブラジルの影響も入っていた。なぜなら、当時のDJがプレイしていた音楽の一部だったから。僕らはアジムスの「Jazz Carnival」で踊っていたんだ。ジョージ・デュークの昔の作品は踊れなかったけど、(ブラジル音楽の要素が入った)「Brazilian Love Affair」はフロアで弾けまくっていたね。サルサ・レコードだけどファンクっぽいものもあったし、ニューヨーク・サルサ・ファンク系のシーンもあった。それをDJがプレイしていたからバンドも影響を受けていたんだ。当時のブラジル音楽にはファンクの要素が含まれていたしね。アジムスもそうだし、マルコス・ヴァーリやバンダ・ブラック・リオもファンクをフォローしていた。





―昔から疑問なんですけど、なぜイギリス人はそんなにブラジル音楽が好きなんですか?

ブルーイ:それはサッカーだよ。

―というと?

ブルーイ:僕は1970年にメキシコW杯をテレピで観て、そこで初めてサンバ・ミュージックを耳にした。メキシコのバンドがすごく単調な応援に聴こえたのに対し、ブラジルの応援団はリズムがまるで違った。スタンドにドラムまで持ってきててさ。「いったい何が起こってるんだ!?」って感じだったよ(笑)。フィールドでペレがドリブルをしているのも、まるでダンスしているかのようだった。カルロス・アウベルトも、トスタンも、リベリーノも、ペレも、みんなフィールドで舞っていた。ボールを使ったあのスピンやフォーメーションは、もうダンスにしか見えなかった(笑)。イギリス人は自分のチームが負けると、より魅力的なチームを応援する。だから、あの時イギリスが負けたあとは、みんなブラジルのサポーターになったんだよ(笑)。

ブリット・ファンクの象徴、ライト・オブ・ザ・ワールドとは?

―ブリット・ファンクといえば、あなたも参加していたライト・オブ・ザ・ワールド(以下、LOTW)も大きな役割を果たしていたと思います。

ブルーイ:その通りだね。

―インコグニートに比べて、このバンドについてはあまり聞かれないと思うので、どういう経緯で関わることになったのか聞かせてください。

ブルーイ:僕は1979年の1stアルバム『Light of the World』に参加した創立メンバーだった。2ndアルバム『Round Trip』になると半分が初期メンバー、もう半分が第2期のメンバーで、アメリカのプロデューサー(オージー・ジョンソン)と一緒に制作された。そして、LAの有名なセッション・ミュージシャンも参加している(ボビー・ライル、ウェイン・ヘンダーソン、ヴィクター・フェルドマンなど)。それに比べると1stアルバムはもっとリアルで、あまり洗練されていない作品だっだ。

僕はその後、LOTWの2作に参加していたポール”タブス”ウィリアムズ(Ba)と一緒にインコグニートを結成した。ピーター・ハインズ(Key)も加入してくれた。彼はアトモスフィアを始めとする多くのプロジェクトに参加していて、他の誰よりもブリット・ファンクの曲をプレイしてきたミュージシャンだと思う。ピーターはSTR4TAにも参加しているよ。


ライト・オブ・ザ・ワールドのシングル「Time (Remix) / Im So Happy」(1980年)



―LOTWはブリット・ファンクの中で、どのような存在だったのでしょう?

ブルーイ:メディアの話に戻るけど、『The Sounds』や『Melody Maker』といった(昔からの)雑誌は、ジャズのムーブメントに一応触れてはいたけど、扱っていたのはジョン・マクラフリンのようなフュージョン寄りの音楽家たちで、「踊る」ためではなく「聴く」ためのジャズを掲載していた。目を閉じて、自分の世界に入り込むようなジャズだね。そういう音楽に合わせて人々は踊らない。ブリット・ファンクのムーブメントは、フュージョンのサウンドを含みながらも、音楽の焦点はその音で踊れるかどうかだった。

LOTWにとっての師匠は、ロイ・エアーズやブラックバーズ、ドナルド・バード。僕らはそういったサウンドの自分たちのバージョンを作ろうとしていた。最初の頃は、ブラックバーズの「Rock Creek Park」をリハーサルで1時間ずっと演奏したりしていたしね。他のフュージョン・レコードと今挙げた面々によるレコードの違いは、素晴らしいフュージョン奏者もフィーチャーしつつ、グルーヴからは決して離れないところだね。なぜなら、彼らがダンスを意識していたからさ。ヒップホップで機能する理由もそこにある。あの反復が人々を躍らせるんだよ。




ブルーイ:LOTWはその反復を用いながら、そこにソロやジャズの自由さを取り入れた音楽を作っていた。曲の中でミュージシャンが色々と試せるようにね。個人的にはそれがLOTWの魅力だった。僕は12歳の時からバンドで演奏していたから、LOTWに携わるまでのあいだに多くのバンドを経験していたけど、LOTWで初めてムーブメントを作り出し、その一員であることを経験したんだ。ハイテンションと同様、LOTWやセントラル・ラインの存在はすごく大きかったんだよ。

LOTWはドナルド・バードのようなリアルなブラック・エナジーに力を入れていて、チャートに入ることよりも、自分たちがより満足できるレコードを作り出すことが最優先だった。そして、その後に生まれたのがインコグニートの音楽では、ジャズの自由さをさらに強く取り込んでいった。LOTWにもその要素はあったけど、それはせいぜい8小節から16小節に限られていた。でもインコグニートはもっと自由で、オープンでクレイジーなソロを大々的にフィーチャーし、そこからより広い世界へ旅することができた。それに、メンバーも男性に限らなかった。インコグニートの音楽は、ジョセリン・ブラウンやチャカ・カーンの方向にも進化していって、ジャズ、ファンク、そしてハウス・ミュージックとどんどん扉を開けていったからね。

それができたのはあの時代、僕がずっとDJのそばにいたから。DJが動けば、僕も彼らと一緒に動いていた。当時はDJが最高の音楽を映し出す鏡だったから。でも、クラブに行って踊っていたのは僕だけだったのを覚えてる。他のメンバーたちは、ただプレイして、レコードを聴いているだけだった。彼らは僕のようにDJにつきまとい、彼らが何をプレイしているかを探ろうとまではしていなかった。僕はメモ帳を片手に「このレコードは何? B面はなんて曲?」なんて聞きながらDJを追い回していたよ(笑)。



ブリット・ファンクが繋いだ過去と未来

―90年代にインコグニートがトーキング・ラウドと契約したとき、ゴンザレスのメンバーだったリチャード・ベイリーとバド・ビードルが加入しましたよね。UKではゴンザレスだけでなくリアル・シング、ココモなど、70年代からソウルやファンクを演奏するバンドが活躍していました。彼らとブリット・ファンクやアシッドジャズはどんな関係にあったのでしょう?

ブルーイ:彼らは僕たちの師匠だよ。まだ若すぎてパブには入れなかった僕は、彼らの演奏が始まるとレンガを持ってきてその上に立ち、窓の外からバンドの演奏を眺めていた。演奏を終えたリチャード・ベイリーがパブから外に出てくると、僕は彼に近寄って「大ファンです! いつか僕がバンドを作ったらドラマーになって下さい!」なんて伝えた(笑)。そして家に帰ると、洗車や庭師をして稼いだ金を貯めて買ったゴンザレスのアルバムを聴いていたんだ。ジェフ・ベックの『Blow By Blow』を聴いて、そこにリチャードが参加しているのを知ると、「リチャード、あの曲で使ってるスネアは何?」なんて聞いたりもした。彼は困ってたけどね(笑)。僕は将来、絶対一緒にコラボしようと彼らにずっと言い続けていた。そしてある日、リチャードに電話したら「素晴らしいプロジェクトだな」と言ってくれて、彼はインコグニートのドラマーになったんだ(笑)。


ゴンザレスの1stアルバム『Gonzalez』(1975年)




インコグニート「Still A Friend Of Mine」(1993年)、ドラムはリチャード・ベイリー

ブルーイ:僕にとって、リチャードを起用するというのは重要なことだった。他のドラマーにはない彼特有のグルーヴが絶対にほしかったから。後年になって、僕がずっと魅力を感じていた彼独特のエナジーは、彼の出身地であるトリニダードのカーニバルで、幼い頃からドラムを叩いていた経験から生まれたものだと知った。多くのドラマーはエネルギーやスピードを落とそうすると、同時にグルーヴもなくしてしまう。それをなくさずに生かし続けられるのがリチャードなんだよ。ボリュームを落としながらも人々を踊り続けさせるという技を極めているからね。

彼らの音楽は、ブラジルやラテンアメリカの音楽に影響を受けていた。例えばゴンザレスは、キューバのリズムもジャズ・ファンクもプレイしていた。彼らはイギリスで一番のグループで、ロック、ジャズ、ポップと様々なミュージシャンたちとセッションしていたんだ。だから僕はジム・マレン(※)もフォローしていた。ジムは後に僕のバンド、シトラス・サンでプレイするようになる。レコード・コレクターがレコードを集めるのと同じように、僕はミュージシャンを集めるんだ。起用したいと思ったミュージシャンが生きていれば連絡する。例えば、イラケレ。彼らは史上最高のキューバン・バンドで、インコグニートの「Fearless」でホーンを演奏している。僕はコレクターだから、その曲に一番適したサウンドを使いたいんだ。

※アヴェレイジ・ホワイト・バンドやココモ、ブライアン・オーガーズ・オブリヴィオン・エクスプレスなどに参加してきたギタリスト


アヴェレイジ・ホワイト・バンドの2ndアルバム『AWB』(1974年)



―以前、ジャミロクワイのジェイ・ケイが、ザ・リアル・シングからの影響を語っていたのを見たことがあります。

ブルーイ:リアル・シングは特に重要な存在だと思う。彼らやゴンザレスみたいにブリット・ファンク以前から存在していたバンドが、ジャミロクワイのようなバンドとつながっているんだ。両者の音楽を表すのに使われる言葉は同じでも、やはり時代が違う。持っているエモーションは同じだけど、新しい世代は育った時期が違うからね。でも、ジャズ・ファンクやレア・グルーヴ、ブリット・ファンク、アシッド・ジャズといった音楽の共通点の一つは、ジャズが関わっていること。即興が入るのもそうだし、ジャズは初のブラック・ダンス・ミュージックとされていた。つまり僕らにとってジャズはブルースではなく、ダンス・ミュージックなんだ。

そして、自分たちの音楽がジャズと関係している限り、そこにはスピリチュアルのトリップという自由が存在する。ジャミロクワイの音楽もそう。ジャズ・ファンクを聴けば、必ずスピリチュアルのトリップを経験することが出来るし、ブリット・ファンクもそれは同じなんだ。


ザ・リアル・シング『Step Into Our World』(1978年)



ブルーイ:ちなみに僕がジャミロクワイを聴いて面白いと思ったのは、彼らが地球に興味を持っていたという点。死ぬにはまだ若すぎるという精神を感じたし、生きるために地球をより良い場所にし、救いたいという思いが込められていた。熱帯雨林や海面の上昇の問題に触れたりしているのは、正に次世代という感じだったね。一方で、彼らの音楽はマイゼル・ブラザーズを思い起こさせる。歌詞は違っていても、あのフィーリングは未だに存在しているんだよ。僕たちの時代は、クラブライフやガールフレンドを見つけることなんかがテーマになっていたけれど、時を経てジャミロクワイの時代になると、あの頃のエナジーはそのままに、トピックが変わっていくんだよね。

90年代に初めてツアーで彼らを見た時は、鋼球のような衝撃を感じた。サウンドは同じなのに、地球のことを歌っているんだから。僕たちの時代は「ベイビー、一生君を愛するよ」なんて内容だったのに(笑)。今の若者たちは、地球の緊急事態なんて、昔では考えることのなかった全然違う認識を持っているんだなと思った。そして彼らにとってのスピリチュアルのトリップは、大麻を燃やすことで作られていた(笑)。彼らのツアーバスは、まるで誰かが熱帯雨林規模の大麻を燃やしてるみたいなニオイがしてたね。ツアーバスに入ってそれを見て、「お前たち一体何やってんだよ!」と言ったのを覚えてる(笑)。



ブルーイ:ジャズ・ミュージックでは、たいまつの火が絶えないんだ。ミュージシャン達は、そのたいまつをバトンタッチしながら聖火リレーをしている。次から次に新しいランナーが出てくる。その中で、音楽は少しずつ形を変えていく。さらに進化して、R&Bバージョンのそれが出て来たりね。ディアンジェロやザ・ルーツはヒップホップから来ているけど、ジャズのルーツを持っているし、アフリカについて触れたりしている。そんな彼らの音楽も、ジャズの延長線上にある。僕はディアンジェロを一番最初にリミックスしたアーティストの一人で、「Brown Sugar」の上にホーンを乗せた。そしたら、次のアルバムの『VooDoo』ではホーンが使われていた。それを聴いた時、彼らも一緒にスピチュアルのトリップをしているって感じたんだ。

そして、ジャズ、ファンク、ソウルの際どい境界線にいるバンドが、今度はなんとオーストラリアから出て来た。それはハイエイタス・カイヨーテ。音楽はジャズなんだけれども、彼らは新しい世代の新しい言語でそれを表現している。パーソナリティや個性、メンタルヘルスといった、これまでよりも一層ディープな問題を取り上げているんだ。これからもそういった新しいバンドがどんどん出てくる。そしてSTR4TAは、みんなにそんなことを思い出させるリマインダーみたいな存在だと思うんだ。



ハイエイタス・カイヨーテは6月25日にニューアルバム『Mood Valiant』をリリース予定





STR4TA
『Aspects』
発売中
詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=11666


around BRIT FUNK : 1970-1990s
70年代末から80年代初頭にイギリスで起こったムーブメント"ブリット・ファンク"とその周辺をまとめたプレイリストです。ブリット・ファンクのルーツでもある70年代のUKジャズ・ファンク(AWB、ゴンザレス、サイマンデ)や、ブリット・ファンクの影響を受けた同時代のポップス(ヘアカット100、スパンダー・バレエ)、ブリット・ファンクから連なる90年代のアシッド・ジャズ(ジャミロクワイ、インコグニート)なども入っています。最後にブリット・ファンクに影響を与えたUK以外のジャズ・ファンク(ドナルド・バード、ロイ・エアーズ)なども入れてます。

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