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GSとカレッジフォークの仕掛け人・本城和治と振り返る、ジャンルを越えた名盤

Rolling Stone Japan / 2021年9月7日 7時0分

田家秀樹と本城和治

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年8月は元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターである本城和治の50曲特集。第5週は、彼が手掛けた名盤について振り返る。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのはザ・スパイダース「あの時君は若かった」。1968年3月発売。今月の前テーマはこの曲です。若かったあの頃を思い出しながらの1ヶ月。今週は最終週です。

関連記事: シティ・ポップの源流、70年代後半の名曲を本城和治と語る

あの時君は若かった / ザ・スパイダース

「J-POP LEGEND FORUM」今月2021年8月の特集は本城和治の50曲。本城和治さん。元フィリップス・レコード、日本フォノグラムのプロデューサー・ディレクター。そして、この曲の制作者。今月はザ・スパイダース、GS、カレッジフォーク、名曲と毎週カテゴリ別にお送りしてきたのですが、今週は名盤編。アルバムです。それまでの日本の音楽シーンにはなかった、新しい発想のアルバムが誕生しました。例えば、今でこそ当たり前になったコンセプトアルバムとか、まだ海外に行くことすら大変だった時代の海外録音のアルバム。さらにそのアーティストの生涯1枚しか作れないだろうなという傑作。そんな数々のアルバムの話をお訊きしていこうと思います。こんばんは。



本城和治(以下、本城):こんばんは。本城です。よろしくおねがいします。

田家:よろしくおねがいします。今週は名盤編と題してみました。シングルとアルバム、それぞれが違うものという意識はどのへんからおありになったんですか?

本城:私はアルバムには最初から興味があって。要するに60年代の中頃からアルバムアーティストというのが出始めてきて、日本ではいなかったんですよ。ボブ・ディランとか、ジョーン・バエズとか、ヒットがなくてもアルバムセールスがすごい時代になってきたかなという感じがあって。私がデビューさせるアーティストはシングルと同時にアルバムでデビューできるようなアーティストとしてやっていこうという思い入れがありまして。ただグループサウンズはどっちかと言うとターゲットが若いので、シングルが中心になって、そんなにアルバムが売れることはなかったんです。ザ・テンプターズあたりは結構アルバムが売れましたね。だから、マイク眞木とか、森山良子はみんなアルバム同時デビューです。レパートリーがたくさんあるアーティストがいました。アルバムでしか紹介できない曲とかありますから、そういった意味でアルバムアーティストは非常に興味ありました。

田家:今日最初にご紹介する曲は1969年、まだGSがあった時に作られたアルバムなのですが、海外レコーディングです。『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』からお聴きいただきます。「エブリバディ・ニーズ・サムバディ」。歌っているのはショーケンソロです。





田家:本城さんが選ばれた今日の1曲目。1969年11月発売、ザ・テンプターズの8枚目のシングルにもなりました。『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』から「エブリバディ・ニーズ・サムバディ」。アルバムがメンフィス録音だった。

本城:そうですね。テネシー州のナッシュビルで森山良子のレコーディングをやる話が決まって、それが発展してどうせやるなら同じ州のメンフィスで。ザ・テンプターズはヒット曲がたくさんあったので、ボーナス的に海外旅行に連れて行く的な(笑)。で、アレサ・フランクリンとか、ウィルソン・ピケットなどR&Bのメッカでもあるし、ブルースの発祥地でもあるし、プレスリーの世界でもあるし。ザ・テンプターズもブルース、R&Bがもともと好きなグループでした。ただ、結局、ザ・テンプターズの他のメンバーはロスで遊んでいただいて、ショーケンだけ現地に連れてきた。

田家:ミュージシャンは、これ、ザ・テンプターズじゃないですよね

本城:これはメンフィスの腕利きのミュージシャンを使って、ショーケンがソロで歌いました。1曲だけリーダーのヨッチンがギターを弾いてますけど、あとは全部コテコテのメンフィスサウンドです。

田家:海外録音は本城さんにとって何回目ですか?

本城:ナッシュビルとメンフィスで、2週続けてやって、これが最初です。

田家:初の海外録音がこれだったんだ! 海外での話をもう少し伺ってから次の曲にいきたいと思うのですが、初めてだと周りにそういう経験のある人、いなかったわけでしょう?

本城:まあ、海外行ったのは初めてじゃなくて、アメリカは2回目で。スタジオへ入ったのは初めてなんですけどね。実際の現場のディレクターみたいな作業は現地のディレクターがやってくれました。歌入れは私がやりましたけど、現地のミュージシャンにいろいろな指示を出したりするのは、現地のディレクターに全部やっていただいたので。こちらでデモテープを録って、それを事前に送って、向こうでアレンジしてもらったり、曲によってはブラスのアレンジを入れてもらったりだった。

田家:次はさっきの話にも出ましたが、森山良子さんがナッシュビルでやっている、このアルバムからお聴きいただこうと思います。1969年12月発売。森山良子さんの『森山良子 イン・ナッシュビル』から「恋人」です。



恋人 / 森山良子

田家:1969年12月発売、森山良子さんの「恋人」。作詞が山上路夫さんで作曲が村井邦彦さんです。

本城:本当はナッシュビルでやるつもりはなかったんですよ。あくまでシングル用に作った曲で、ヨーロッパのポップスであるコード進行、要するに「枯葉」の進行ですね。こういうコード進行の曲は日本の歌にそれまでなかったので。

田家:シャンソンの「枯葉」の。

本城:そうです。そういうコード進行の曲を村井邦彦に頼んで。どっちかと言うと、ヨーロッパポップスのベースとメロディなので、これをナッシュビルでやるのは不安があった。でも、ナッシュビルのレコーディングが決まっちゃったんで、これもわざわざ日本でやらないで、一緒にナッシュビルでやろうってなったんです。ナッシュビルだし、おもしろい出来上がりになったのでよかったんですけどね。

田家:もっと評価されてよかったみたいなものはありますか?

本城:まあ、森山良子の『森山良子 イン・ナッシュビル』は結構話題になったんですが、ザ・テンプターズの『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』は意外と思ったほどではなかったんですよ。

田家:そういう意味では当時のGSのファンの人とか、GSの関係者の人にとっては関心が薄かった。

本城:テンプターズのファンとメンフィスはあまり考えが結びつかないですよね。

田家:そういうことに今だから光を当てるべきだというのが、今週の趣旨でもあります。今までお話をした2枚は海外録音だったのですが、次は多重録音。森山良子さんと言えば、従兄弟のこの人の話をしなければいけない。1970年2月発売、かまやつひろしさん『ムッシュー~かまやつひろしの世界』から「二十才の頃」。



ニ十才の頃 / かまやつひろし

田家:1970年2月発売、かまやつひろしさん、アルバム『ムッシュー~かまやつひろしの世界』から「二十才の頃」。作詞がなかにし礼さんで、作曲がかまやつさん。なかにし礼さんは安井かずみさんと一緒にコーラスでも参加しております。この曲は今井美樹さんが絶賛して、自分でもカバーしているのですが、今井美樹さんの「二十才の頃」もいいです。もし機会があれば。

本城:これは最初、井上順のアルバムで、井上順と当時の奥さんの青木絵美が歌ってます。

田家:当時からいい曲だなと思われてました?。

本城:そうですね。これはスタンダードに残る曲だなと思っていました。

田家:このアルバム『ムッシュー~かまやつひろしの世界』はどんなふうに思い出されますか?

本城:ちょうどこのアルバムを作った頃に日本でもマルチ録音をするようになってきて、スタートはザ・スパイダースのアルバムでムッシュが実験的に1人多重録音を始めたことなんです。マルチトラックが開発されなきゃ、こういう録音はなかなかできなかった。彼はそういった意味では先駆者ですよね。ポール・マッカートニーはこの後、1人で録音をしましたけども。

田家:ポール・マッカートニーより早い(笑)。それは声を大にしなければいけない。このアルバムの中には石坂浩二さんが詞を書いていたり、ショーケンが詞を書いていたり。かまやつさんの人脈がいろいろな形でここに集まっているアルバムでもあったなと思いました。60年代終わりから、70年代の頃の才能とかセンス、冒険心について、多重録音、自宅録音が当たり前の今の時代の人たちにお話しされるとしたらどんなことでしょう。

本城:今の人たちだったら簡単にこういうことができるだろうけど、当時はほとんど不可能に近い状態で。よく彼はやったなと。そういった意味では本当に時代の先を行っていたと言えると思いますし、今の人たちは逆に言うと羨ましいなという気がします。

田家:かまやつさんの話が次の曲にも続くわけですが、この『ムッシュー~かまやつひろしの世界』にはティーブ釜萢さん、お父様と一緒にやっているデュエット。「僕のハートはダン!ダン!」という曲もあるのですが、この翌年1971年にはお父様との共演盤というのも出しております。今週は海外録音、多重録音、そして次のアルバムは親子録音というアルバムです。1971年発売『ファーザー&マッドサン』から「Walking My Baby Back Home」。これCDになっているみたいなのですが、ほとんど手に入らないということで、アナログ盤からお聴きいただきます。ティーブさんは日本ジャズ学校というジャズの学校の校長さんだったのですが、ジャズのスタンダードの味を聴かせてくれます。



Walking My Baby Back Home / かまやつひろし&ティーブ釜萢

田家:この歌はいいですねー。力が抜けてて、スウィングしてて。

本城:味がありますよね。

田家:1971年発売かまやつひろしさんとお父様のティーブ釜萢さん、お2人で作られたアルバム『ファーザー&マッドサン』。このアルバムあまり手に入らなくなってますもんね。

本城:そうですね。私は持ってませんので、作ってから50何年振りに聴きました。

田家:あ! そんな感じですか。うわー…… そういう番組だというふうに思っていただけるとうれしいです。お聴きいただいたのはジャズのスタンダードナンバー「Walking My Baby Back Home」でした。で、名盤と言うと、このアルバムの話をしなければならない。1976年1月に発売になった石川セリさんの『ときどき私は・・・』。ソフトロックの名盤中の名盤として、これは時が経てば経つほど、評価が高まってきている1枚だと思ったりするのですが。

本城:石川セリはポニーキャニオンでデビューしたんですけど、その後に先週お話しした樋口康雄と知り合って、彼女の声とか歌のセンスに惚れて。それでフィリップスに移籍させて作った最初のアルバムなんですけどね。新しいボーカルシーンを作れるなと思って。

田家:作家が荒井由実さんとか、下田逸郎さんとか、先週話に出ましたピコこと樋口康雄さん。萩田光雄さん、瀬尾一三さん、佐藤健さん。アレンジャーの方たちが曲を書いたりしていて、作詞家の中には松本隆さんもいます。演奏は松任谷正隆さん、矢野顕子さん、伊藤銀次さん、小原礼さん、後藤次利さん、村上ポン太秀一さんという人たちの中に、シュガー・ベイブもいた。

本城:結果的になんですけど、ちょうどその後活躍する人たちが参加できた。そういう新しい音楽に育ってきつつあった時代の1つの結果でしょうね。このアルバムは。

田家:今名前が挙がったようなミュージシャンの人たちが、それまでの人たちと違うものがあったとしたらどういうものですか?

本城:新しいロックの香りと言いますか。一昔前はどっちかと言うと、ポップスはジャズの香りがした。ジャズメンが作ったポップスみたいな時代があったんです。この時代からビートルズ世代、新しいロック世代の人たちが立ち上がってきたということでしょうね。

田家:さっきのかまやつさんの『ファーザー&マッドサン』のミュージシャンはドラムはつのだ☆ひろさんだったり、ギターが成毛滋さんだったり、ベースが山内テツさんだったり、70年代始めのロック系の若いミュージシャンが集まっていて。石川セリさんにはちょっと違う、はっぴいえんど系の人たちと言うんでしょうかね。

本城:そういうところにアンテナ張ってないと、新しい音楽はできてこない気がしますよね。アレンジャーの起用も含めて。アレンジャーが結局、ミュージシャンを選ぶということも多いですから。新しいアレンジャーを選ぶと、アレンジャーが時代に合ったミュージシャンを連れて来る。

田家:曲によってね。

本城:多かった気がしますね。

田家:それでは1976年1月発売、石川セリさんの『ときどき私は・・・』の1曲目、「朝焼けが消える前に」。





田家:石川セリさんの名盤『ときどき私は・・・』の1曲目「朝焼けが消える前に」です。本城さんが選ばれた今日の5曲目です。

本城:所謂ソフトロックじゃないですかね。きっかけみたいな感じですよね。

田家:ソフトロックという言葉がなかったですもんね。『ときどき私は・・・』の制作の中で、1番思い出されることってどういうことですか?

本城:さっき言った、新しい作家たちと新しい世界を作っていけるということの楽しみみたいな部分。要するにセリはシンガーソングライターじゃないですから。書いているのはシンガーソングライターですけど、良い歌詞の良い音楽を作っていきたい。作家とアレンジャーと歌手と、良いコラボレーションのレイヤードを作りたいなというところですね。

田家:片方にシンガーソングライターがいて、もう片方には本当に歌謡曲系の演歌の人だとか、アイドルの人しかいないシーンの中でのこのアルバムでしたもんね。

本城:そういうことですね。やっぱり、最上のポップスミュージックを作りたい、それだけです。それと、そんなにヒットソングをあえて意識的に作らなくても、良いアルバムを作れば売れるんじゃないかという自信と言えば変ですけど、そういうものがありました。音楽の説得力がある音を作りたいなというのがありましたね。売れる曲を作るというよりは良い音楽を作りたいという気持ちが強かったです。

田家:このアルバムが今でも愛聴盤だという方がたくさんいらっしゃる、そういうアルバムとして残っています。「J-POP LEGEND FORUM」本城和治さんの50曲、今日の5曲目。石川セリさん1976年1月発売のアルバム『ときどき私は・・・』の1曲目、「朝焼けが消える前に」でした。

田家:再び森山良子さんのお話をお訊きしようと思うのですが、良子さんが初めて1枚のアルバムを1人の作詞家に依頼した。彼女にとって最初で最後のコンセプトアルバムが次の曲が入っているアルバムなんですね。『日付のないカレンダー』。その中からお聴きいただきます。作詞・松本隆、作曲・細野晴臣「DISNEY MORNING」。





田家:1976年7月発売、森山良子さんのアルバム『日付のないカレンダー』の中の「DISNEY MORNING」演奏はティン・パン・アレーです。このアルバムのプロデューサーは松本隆さん。彼が全部の曲の作詞を書いている。良子さんにとっては最初で最後のアルバムというふうにご本人も言われていました。

本城:このアルバムを作る前にも松本くんに詞を書いてもらったりしていましたし、ちょうど良子さんと松本くんはほとんど同じ世代で、同じ東京の山手育ち。同じ青春を振り返るシーン、共通なものもあるし、コンセプトアルバムを作るのは絶好のチャンスだなと思って。それで、彼の希望を結構入れて、今まで付き合いがなかった作家を起用したり、そういった新鮮さも出せるしこれはおもしろい企画になるなと思って。

田家:本城さんが選ばれた名曲の中にこのアルバムの中でもう1曲「キングストンの街」という曲があって、それが二人にとっての渋谷が舞台になっているという松本さんと森山良子さんの世代が重なるみたいな曲なのですが。「DISNEY MORNING」にしたのはティン・パン・アレーが演奏だったということと、これは本城さんご自身も参加されているんですよね。

本城:これ、そうなんですよね。細野くんと一緒にカスタネットを叩いて。細野くんに教わって叩きました。

田家:細野さんについてはどう思われますか?

本城:最初はやっぱりすごいベーシストだなと。それと、オリジナルで独特な世界観を持っていて。これらが本当にらしいですよね。

田家:松本さんも細野さんも50周年イヤーを越えて、未だにお2人とも元気なわけですけども。名盤編ということで、そのアーティストにとっての転機になったアルバムをもう1枚ご紹介します。1977年4月発売。大橋純子さんのアルバム『RAINBOW』から、これも作詞が松本隆さんでした。「シンプル・ラブ」。





田家:1977年4月発売、大橋純子さんの「シンプル・ラブ」。収録されているアルバムは『RAINBOW』。大橋純子&美乃家セントラル・ステイションの1作目でありました。このアルバムについてはどんなふうに?

本城:彼女はバンドでやりたい希望がずっとあって。バンドと一緒に音楽を作って、ステージをやる。それが彼女の理想でもあったんです。2枚目のアルバムができた時に、このアルバムのメンバーとちょっと違うんですが、初めて大体の母体がその時にできて、やっと人員が決まった。で、3枚目のアルバムで美乃家セントラル・ステイションという名前で正式にメンバーが固まった。バンドでレコーディングできた最初のアルバムなんで、思い出深いですね。

田家:今日はザ・テンプターズから始まって、かまやつさんの時代のロック系ミュージシャンがいて、先程の石川セリさんのところではティン・パン・アレーが登場し、この美乃家セントラル・ステイションではフュージョン系のミュージシャンまで登場してくる。本城さんがお作りになったアルバム、どれもその時代のビート、その時代のリズム。若手のミュージシャンが集まっている。そういうキャリアの重ね方でもあるんだなと。

本城:そうかもしれないですね。どっちかと言うと、はっぴいえんど系のミュージシャンを脇で見ながら、違う立場のミュージシャンとやっていた部分が多かったんですがね。だから、鈴木茂とか林立夫とか、あまりそういう人たちとやる機会はそんなになかったんですよね。でも、良いミュージシャンに巡り合って、一緒にできたなという感じはします。

田家:その中でも大橋純子さんは特別な存在だった。

本城:そうですね。この美乃家セントラル・ステイションと一緒にアルバムを6枚作りましたからね。ちょうど石川セリと大橋純子と、東と西とで対称的な音楽作りができて、それもおもしろかったです。

田家:今日、本城さんが選ばれた曲、8曲目なんですが1番新しい曲と言っていいかもしれません。2005年の曲です。加藤紀子さんのアルバム『Les oiseaux bleu 青い鳥』の中から、「デルフィーヌの歌」。



デルフィーヌの歌 / 加藤紀子

田家:2005年発売のアルバムです。加藤紀子さんの『Les oiseaux bleu 青い鳥』の中の「デルフィーヌの歌」。これを選ばれているのは?

本城:これを彼女がちょうど地中海レーベルで、ヨーロッパの地中海沿岸の国々の名曲を集めようということで。

田家:カバーアルバム。

本城:そうですね。この曲はミシェル・ルグランの『ロシュフォールの恋人たち』の中の名曲で、言語で歌っている人はなかなかいない。映画のサントラ以外ではヨーロッパで2、3人ジャズボーカリストが歌って。世界で3番目ぐらいじゃないですかね、言語で「デルフィーヌの歌」を歌っている人は。

田家:彼女はフランスに留学していたことがある。1973年生まれ。2005年というのは本城さんが最初にお仕事をされて、1週目のスパイダースの話に出ていた、1966年から数えると、40年目ということになるのですが。

本城:ああ、そうですね(笑)。

田家:40年間、現役のプロデューサーとしてずっとおやりになった。

本城:2000年代に入ってから、アルバムなんていうのはほとんど作ってませんでしたから。久しぶりに作ったアルバムなんですけども、現場仕事はやっぱり楽しいなと思いながらやってました(笑)。

田家:さて、次が今月1ヶ月の最後の曲になるのですが、「デルフィーヌの歌」が今日の8曲目なんですね。本城和治さんの50曲と言っていながら、次は9曲目になります。でも、前テーマの「あの時君は若かった」を入れて、50曲目ということで、この曲をお届けしたいと思うのですが。オリジナルは1969年、作詞作曲は寺島尚彦さん。森山良子さんで「さとうきび畑」。



さとうきび畑 (1969年バージョン) / 森山良子

田家:この曲で思われるのはどういうことですか?

本城:これ、レコーディングやる時は結構緊張しましたね。

田家:1969年。

本城:なんせ長い曲なんでね、途中で失敗したら大変だなと思いながら。全部同録ですから。たしか2テイク録って、2テイク目でオッケー。1回目も悪くなかったんですけど。さすが森山良子だと思いました。

田家:1964年に寺島尚彦さんが歌われた。

本城:そうですね。たまたま彼女が寺島さんと家が近かったみたいなので、顔見知りだったらしいです。散歩がてら彼女の家に寄って、譜面を置いていったのがこの曲だった。たまたま森山良子が、私の企画アルバムでカレッジフォーク的な曲を集めた時にこの曲を彼女が思い出して。「こういう曲があるんだけど」って僕に持ってきたんですよ。すごく良い曲だなと思って。

田家:本城さんは1939年生まれでらっしゃるわけで、戦争の記憶っておありになりますか。

本城:ほとんどないんですけど、防空壕に潜ったような記憶はあります。それから、疎開の記憶はあります。

田家:この歌が歌い継がれるということで、あらためて思われるのはどんなことでしょう。

本城:森山良子という歌手を得て、こういう曲を世に知ら示すことができた。この曲と同時に同じアルバムで武満徹さんの「死んだ男の残したものは」という曲もやっているんですよ。あれも非常に反戦的メッセージの名曲で。この2曲は森山良子の歌もすごく素晴らしいし、反戦歌というのを越えて、日本の名曲として残したい思いがすごい強いです。時代を越えて残る曲を、記録として残せたのはうれしいですし、それをある程度広く知らしめることができたのはこういう仕事をやっていて、1番うれしいことですね。

田家:今月50曲ということで、5週間お話を訊かせていただいたのですが、残したいこと、語りたいこと、これだけは言っておきたいことはおありになりますか?

本城:私は歌を流行らせたいというより、良い歌を世の中に残したいというつもりでずっとやってきたので、そういうことができた時代に、こういう仕事ができて非常に幸せだったなと今感じています。

田家:それを伝えていくのが僕らの役割でもあるんだろうと思っています。ありがとうございました。

本城:どうもありがとうございました。





田家:「J-POP LEGEND FORUM」本城和治さんの50曲。1970年を境にしたJ-POPシーンの立役者。元フィリップス・レコード、日本フォノグラム、プロデューサー・ディレクター、本城和治さんをゲストの5週間、今週は名盤編ということで最終週をお送りしました。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

70年を境にしたと何度も申し上げてきましたが、70年代だけではなくて、80年代もずっと現役で音楽を作り続けてこられた方です。この番組が始まってから、1人の制作者で5週間というのは初めてですね。プロデューサーは今までも三浦光紀さんとか、寺本幸司さんとか、近藤雅信さん、牧村憲一さんとか何人も登場していただいたのですが。5週間というのは初めてでありまして、ずっと気になっていた方でもあります。聴いていただいてお分かりのように本当にいろいろなジャンルを手がけておられて、関わっている方も多いので、やはり5週間ぐらいの時間がないときちんと全貌をお伝えできないのではないかということで、今の時期になりました。

J-POPのインフラを作ったという意味では、いろいろな功労、いろいろな功績を残されている方です。海外録音のアルバム、コンセプトアルバムとか、そういう仕事をずっと続けてこられました。新しいジャンルや才能というのはまだ誰も知らないところから始まるわけで、きっかけを作る人がいないと、そういう歴史は始まっていかないという代表的な人ですね。語られるべき人、それから語るべきことがたくさんある人物でもあると思います。最後の「さとうきび畑」の後に言われてましたが、売れる曲よりも良い曲を作りたいとずっと思っていた。そういう姿勢を良心と呼ぶんでしょう。裏方のレジェンドのお仕事、功績を伝えていくのもこの番組の役割なんだなとあらためて思った、そんな1ヶ月でした


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE :  https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
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