トマトコーラの正体とは? 発酵に魅せられたシェフが鎌倉で供する、時間を味わうような「おいしさ」〜小町通りのenso
集英社オンライン / 2024年4月10日 11時0分
〈「餅にアンコがのっただけのものがなんでこんなにおいしいんだろう」甘糟りり子が心酔する鎌倉「権五郎力餅」〉から続く
鎌倉で育ち、今も鎌倉に住み、当地を愛し続ける作家の甘糟りり子氏。食に関するエッセイも多い氏が、鎌倉だから味わえる美味のあれこれをお届けする。今回は、「発酵」の世界に魅せられたシェフの遊び心とトライアルにあふれる小町通りの「エンソウ」のおいしさを。
トマトコーラをご存知ですか?
「トマトコーラ」をご存知だろうか?
「エンソウ」というレストランで生まれて初めて、それを味わった。
確かにコーラなんだけれど、確かにトマトの味がする。炭酸の奥にトマト特有の酸味が潜んでいて、飲んだ後からそれが効いてくる……ような気がした。これはもしかすると、私の記憶にあるトマトの酸味がトマトのエッセンスによって蘇り、実際には舌で感じていない味覚が心の中で再現されているのだろうか。なーんて、理屈っぽいなあ、私は。
このコーラは発酵させたトマトを濾して、カルダモンやシナモンなどのスパイスと合わせ、ソーダで割ったものだそう。おいしかったし、おどろきがあった。
そう、「おどろき」。これは私がレストランに一番求めているものだ。単に「おいしい」だけでなくて、何これ?と思う瞬間を求めて、あちこちに足を運んでいる。
エンソウはグルメサイトなどではフレンチもしくはイノベーティヴとジャンル分けされるのだろうが、私の頭の中では「発酵」というジャンルに収まっている。さまざまな食材を発酵させ、メニューに落とし込むのが、こちらのシェフである藤井さんの個性だ。
例えば、フライドポテトに添えられているマスタードはイエローパプリカを発酵させたもの。例えば、半熟卵には28ヶ月発酵させたイカで作られたマヨネーズ。例えば、和牛のフリットには発酵牛醤エシャロットソース。などなど。
彼が発酵のおもしろさを発見したのは東京のレストラングループで働いていた頃である。伝統的かつ革新的な、かの「レファルベソンス」での研修中のことだった。そこで発酵の手法に触れ、ハマったそう。
いわく「発酵って料理の技術ではあるんだけれど、飼育みたいじゃないですか。それがおもしろくて」とのこと。
鎌倉のエンソウで働くようになり、資料を集めて読んだり、YouTubeを見たり、独学で発酵の知識を増やしていった。
店の入り口から見える棚には藤井さんが発酵させている数々の食材が瓶詰めにされ、ずらりと並んでいる。瓶の中であらゆる野菜や魚などの食材が微生物と一緒に「その時」を待っている。この棚は、いわば彼の実験室。瓶の正面にはそれぞれの食材がイラストで描かれていて、一見の価値あり。イラストは藤井さんによるものだ。ここに収まりきらないものは店の奥に置かれているそう。
発酵とは時間を味わうことなのだ
地産地消もこのレストランの特徴で、野菜のほとんどは鎌倉農業連合販売所で入手する。その日の朝に仕入れた新鮮なトマトを、一年ほど瓶の中で寝かせて発酵したトマトと合わせる、そんなことをやりたいのだと藤井さんはいう。
時々、発酵と腐敗は紙一重ともいわれる。そもそも発酵とは、麹カビや酵母、各種の菌などの微生物によって食材を変化させること。それが私たちにとって有益な場合は発酵となり、有害な場合は腐敗となる。日本人にとって身近な発酵といったら、味噌、醤油、納豆などがある。きっとそこに辿り着くまで、昔の人たちの失敗がたくさんあったに違いない。
発酵とは時間を味わうことなのだ。
時間という格別の調味料をまとった食材は、鮮度の良さとは違う個性があって、角のないまろやかさを醸し出す。その食材の魅力をより深く追求できる味わい、といったらいいだろうか。きっと人間も同じだと思う。腐敗ではなく、発酵された中年を目指さなければね。
そして、エンソウの地産地消、地元にこだわったセレクトは食材だけにあらず。食後のコーヒーに使われているのは大磯の「ビーンズマート オイコス」によるオリジナルブレンドだ。かつてオイコスにハマって、取り寄せてきた時期があるので、なつかしくうれしかった。
和のハーブティーは鎌倉の「今古今」がこの店のために調合したもの。黒豆、よもぎ、シナモン、カルダモン、ジンジャー、月桃の葉がブレンドされた「黒豆スパイスチャイ」なんていうのもある。主張が強すぎないのに個性があって、藤井さんの料理によく合う味だ。ノンアルコールのドリンクが充実しているのも「エンソウ」の個性で、自家製の発酵ドリンク「白葡萄 大葉」は開業以来の人気の一杯。
場所は小町通りから少し奥まった小道にある。うまく改装された古い日本家屋で、ここはかつて置屋だったそう。鎌倉にもその類のところがあったとは意外だったが、小町通りに住んでいた友人は、子供の頃にそれらしき女性を見たことがあるという。
夕暮れ時、着物を着て、厚化粧をして、ため息をつきながら傘を振り回し、小町通りを鎌倉駅に向かって歩いていたのだとか。会社の保養施設などが点在し、接待の場所も多々あっただろうから、さもありなんともいえる。
鎌倉という街もまた、時間という調味料をまとい、発酵されている途中なのかもしれない。
撮影・文/甘糟りり子
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