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なぜシャンパンタワーにドンペリが選ばれるのか 日本に欠けているラグジュアリーの視点と可能性

東洋経済オンライン / 2023年12月21日 9時0分

このとき注意すべきは、ヴィンテージのドンペリが高価な記号として成り立つためには、仮にビンの中身の味がまったく同じであっても、名前がドンペリであり、しかも、その名前が消費される界隈でよく知られていないと成り立たない、ということである。

シャンパーニュ地方にはたくさんの葡萄畑があって、熟練した農家と醸造技師たちが腕を競って優れたシャンパンをつくっている。気候風土がほぼ同じ地域で、まさかドン・ペリニヨンだけがまったく独自の美味を実現できているはずはない。

年ごとの出来不出来も考えれば、日本ではさほど知られていなくても、ドン・ペリニヨンに遜色ない味のシャンパンが他にないと考えるのは不自然である。

しかし仮に、ドン・ペリニヨンとほぼ同じ味のシャンパンの銘柄が他にあったとしても、それがどれだけ官能的な美味であっても、シャンパンタワーには使いにくい。タワーに注がれるビンに書いてある名前を見て、「あの高価なシャンパンをこんな贅沢な飲み方で使っちゃうなんて!」というショックを目撃者に与えることができないからである。

ラグジュアリーの世界はソーシャルゲーム的

ラグジュアリーの世界は、このような美と記号の2つの現象がセットになってこそ成り立つ。ところが得てして日本社会でラグジュアリーをつくったり論じたりしようとする人たちは、どちらか片方だけで解釈しようとしたがる。説明に一貫性を持たせようとして表面的な話にしてしまう。

ちゃんとラグジュアリーブランドを構築していこうとするなら、そんな浅薄な把握でよいはずがない。ラグジュアリーは、優れた天稟と感性に恵まれたディレッタントと、自己愛に塗れた露悪的な俗物の共犯関係があって成り立つものである。

しかも人数でいえば、圧倒的多数は俗物役を演じるほうである。真ん中にいるディレッタントのつくる美が、ちょうど雪原を転がる石が雪を巻き込んで大きな雪玉になっていくように、「課金厨」的俗物たちの自己愛に包まれて大きなまとまりになっていく。ラグジュアリーの世界はそんなソーシャルゲームである。

この両面の視点からでしかラグジュアリー論は始まりえないと筆者は思っているが、先に論じたように、日本で真面目にものづくりに勤しむ職人と経営者の善男善女たちは、「真面目にいいものをつくっていれば、いつの日か世間が見つけてくれる」というイメージから、なかなか脱却することができない。

しかし、その「至誠天に通ず」的ラグジュアリー観のままでヨーロッパのステータスシンボル化に成功したラグジュアリーブランドを見ると、勘違いしてしまうのである。

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