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なぜシャンパンタワーにドンペリが選ばれるのか 日本に欠けているラグジュアリーの視点と可能性

東洋経済オンライン / 2023年12月21日 9時0分

自分たちの置かれている境遇とは隔絶した世界を全部、「真面目なものづくりが評価された結果のステータス」と見積もってしまう。実際には、日欧間で商品本体の品質、技巧にはそこまでの違いはなく、それを記号としてシンボライズする手法の巧拙の違いの反映であるのに、そのことをうまく認知できない。

そうすると、ものづくりに携わってきた自分たちでさえ識別できない神業のような微妙な技巧、品質の違いがモノそのものにあるように解釈して、萎縮してしまう。あるいは、その微妙な細部の差異を求めて、過剰品質に陥ってしまう。

むしろ、それに回す資源は、自社商品の広報、イメージ普及に使うほうがバランスがよい投資となるのに、モノでばかり勝負しようとしてしまう。

やさぐれたブランド観の問題

「至誠通天」の裏返しにすぎないのが、「ラグジュアリーは、しょせん記号だ」という、マーケティング専門家のかなりやさぐれたブランド観である。こちらはこちらで、記号としての商品の意味づけにばかり重点を置き、モノそのものの技巧、品質をおろそかにしてしまう。

すでに世評が高まったヨーロッパのラグジュアリーブランドの日本法人の経営者には、自分の任期中に「過去の定番商品のデザインを丸めて買いやすく身近にした廉価版」を店頭に並べて、ロゴばかり大きく表示して売ろうとする場合がある。

一時はステータスシンボルに憧れる消費者に受けて売り上げが伸びるが、ブームの後に残るのは通俗的に安っぽくなったブランドイメージである。元来そのブランドの美を評価して愛用していたコアなファンは、幻滅して去ってしまう。

ところが、当の経営者は、その頃には同業他社に転職して、また同じことをやろうとしている。いわば「ブランド焼き畑農業」である。

反対に製造現場の側は、ラグジュアリーを買う人の心の中の虚栄心をちゃんと見据えない。自分だって消費者としては、「これを買い身につける自分が社会的にどう見られるか」とか、記号としての商品の意味を気にすることもあるくせに、生産者としてはその実感を放念してしまう、「かまととラグジュアリー論」である。

流通現場の側は、ラグジュアリーの技巧と品質に立ち入る気もなく、消費者の自己愛と虚栄心ですべてを説明しようとするあまり、短期的視野の施策しか打つことができなくなる(しかも、それを合理的だと自認する)。

結果として、自分から移ろいやすい記号の印象操作に巻き込まれていき、長期的信任を疎かにし、コモディティに近づいていくことになる。いわば「やさぐれラグジュアリー論」である。

日欧のクラフト評価の違い

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