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「首都」を目指した?南林間駅が秘めた壮大な野望 「田園調布以上」を狙った住宅地、撮影所も誘致

東洋経済オンライン / 2024年3月2日 6時30分

南林間駅西口。同駅は小田急の総帥、利光鶴松の構想した林間都市の中心になる駅でもあった(筆者撮影)

東京都心部では大規模再開発が続いている。2023年11月には東京・港区に麻布台ヒルズが、12月には渋谷区にShibuya Sakura Stage(渋谷サクラステージ)がオープンした。2024年以降もHARUMI FLAG(晴海フラッグ)のまちびらきを筆頭に、大規模再開発が目白押しだ。これらの再開発はデベロッパーによって文言は異なるものの、「緑」と「健康」が共通したコンセプトになっている。

【写真を見る】目指したのは田園調布を上回る「緑と健康の住宅街」。現在、小田急南林間駅の周辺には何がある?

街が都市化すればするほど、人々が緑や健康を欲するのは時代を問わない。大正期、東京は著しく都市化した。同時期、鉄道会社は郊外に路線を延ばすとともに、沿線に住宅地を造成。それらの郊外住宅地は、緑と健康をウリにしていた。

「田園調布を超える街」目指す

その代表は田園調布だが、住宅地に緑と健康を求める潮流はその後も続く。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)は、1927年に新宿駅―小田原駅間を開業。1929年には大野信号所(現・相模大野駅)から分岐する江ノ島線も開業した。同線は海浜リゾートとしてにぎわう江の島へのアクセスを目的にした路線だったが、途中駅では田園調布を超えるような住宅地が計画された。

小田急の総帥だった利光鶴松は、それらの住宅地を林間都市と命名。同地には中和田、公所、相模ヶ丘の3駅が開設される予定になっていたが、直前になって東林間都市(現・東林間)、中央林間都市(現・中央林間)、南林間都市(現・南林間)へと駅名が変更された。

これは、利光が田園調布を超える緑と健康の住宅街をつくるという野心を達成するために変更したといわれる。駅名によって、その意気込みを内外に示そうとしたのだ。

利光は新宿駅―小田原駅の着工前となる1925年から小田原急行土地株式会社を設立し、座間町(現・座間市)、大和村(現・大和市)、大野村(現・相模原市)の一帯に広がる山林100万坪を買収していた。そのうち林間都市には約80万坪が充てられている。林間都市の中心は駅名から中央林間都市駅と思われがちだが、利光は南林間都市駅を構想の中心に据えようとしていた。

そして、開業前年にあたる1928年から、すでに南林間都市駅周辺は宅地造成が始められている。翌1929年の開業年には、駅西側に約74万5000平方メートルの住宅地を分譲開始した。このときに分譲された一帯には、伊東静江によって大和学園女学校(現・聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校)が開校する。

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