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「この木なんの木」と深い縁、ポール与那嶺の半生 ポール与那嶺さんにインタビュー(前編)

東洋経済オンライン / 2024年3月28日 11時0分

ハワイのビジネスでは信頼関係、島国的なパーソナルリレーションシップはとても重要ですね。ヒューマンネットワークは、リスク管理にもつながると思います。このことで、当時(日立製作所の)社長だった古川(一夫)さんに「グッジョブ」と褒めていただいたことは、思い出に残っています。

―――その古川社長から、その後日立でコンサル会社を立ち上げて社長になってくれないかと誘われたのですね。

今もよく覚えていますが、古川社長がハワイまでわざわざ会いにきましてね、「日立の改革ができなければ日本の改革もできない」とおっしゃって。それまで自分のキャリアプランの中にはありませんでしたが、2006年から4年契約で日立コンサルティングの社長を務めました。

祖父が沖縄からハワイに渡る

―――ポールさんご自身は東京で生まれ育っていますが、お祖父様が戦前に沖縄からハワイ移民としてマウイで過ごし、そこからお父様のウォーリーさん(与那嶺要さん)はアメリカンフットボール初の日系人選手になり、そして戦後初の外国人プロ野球選手として読売巨人軍や中日ドラゴンズの選手・監督で大活躍されていますね。

祖父は沖縄県の中城(なかぐすく)から那覇、横浜を経由して、船でホノルル、ラハイナへと16歳の時に渡ってきています。この年で全然知り合いがいないところに1人で行くというのは、いまだにちょっと想像ができませんよね。ゼロスタートから最終的には子供7人を育てました。

今回、残念なことにラハイナで火事があり、祖父がいた村もその被害に遭いました。朝から晩までさとうきび畑で仕事をして家族を養っていくのは大変だったと思いますが、アメリカンドリーム的に家も購入して、子供もそれなりにいい学校に行けるようになりました。

父は第2次世界大戦終結のわずか1年半後、1947年に初の日系人選手として(アメリカのプロフットボールチームの)サンフランシスコ・49ers(フォーティーナイナーズ)に入って、白人とぶつかり合いをしているんですよね。(その後野球に転向し)1951年には日本のプロ野球で初の外国人選手として巨人軍に入っています。

球団のチームメイトは戦争で家族を失ったりして、サンフランシスコでも日本でも、最初は嫌われていたわけです。大変だったと思いますが、そこは彼なりに根性を持ちながら職人のように練習して、いい成果を出すようになって、次第にどちらでも好かれるようになったんですね。

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