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「厳島の戦い」毛利元就の"気象を読む力"のすごさ 城好き人気気象キャスターが語る「城と名将」

東洋経済オンライン / 2024年3月29日 18時0分

戦国時代に天気を利用して勝利をつかんだ名将の姿をご紹介します(写真:skipinof/PIXTA)

NHK総合サタデーウオッチ9の人気気象キャスターである久保井朝美さんは、大のお城好き。気象予報士になってからは、お城や歴史を見る視点に「天気」という専門性が加わり、新たな疑問や仮説が浮かんでくるようになったといいます。

久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より、今回は戦国時代に天気を利用して勝利をつかんだ名将の姿をご紹介します。

日本三大奇襲戦の1つ

桶狭間の戦い、河越の戦いとともに、日本三大奇襲戦といわれる「厳島の戦い」(源義経の一の谷の戦い〈鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)とし〉を含む説もあります)。

【写真で見る】桜との共演も素晴らしい、雪から城を守る「赤瓦」を天守から眺める会津若松城

一般的に奇襲戦は、正面からぶつかったら敵わないであろう相手に対して、意表をついて攻撃することで勝機を見出すためにとる戦い方です。

1555(天文24)年10月1日の厳島の戦いでは、毛利元就(もとなり)が奇襲攻撃を仕掛けて、陶晴賢(すえはるかた)が率いる約5倍の軍勢に勝利しました。数の上では圧倒的に有利だったはずの陶軍はまともに応戦できず、その日のうちに陶晴賢は自害したのです。

元就は、息子たちに一族の結束の重要性を「三本の矢」に例えて説いたことなど、知将として知られています。

その元就が厳島の戦いに勝利できた背景には、荒天をも味方につけた知略がありました。

毛利元就VS陶晴賢

戦いの舞台は嚴島神社で有名な、広島県の厳島です。最前線となった毛利軍のお城は、宮島港のすぐ近く、要害山(ようがいさん)にある宮尾城(みやのおじょう)。

標高は約30メートルしかないものの、周辺は急峻で攻めにくいお城でした。また、現在は埋め立てられていますが、当時はもっと海に近くて、水軍の城でもありました。

厳島の戦いからさかのぼること4年、1551(天文20)年に陶晴賢(当時は陶隆房・すえたかふさ)は、主君の大内義隆に謀反を起こして、自害に追いこみました。大寧寺(たいねいじ)の変といわれるこの事件後、陶晴賢は大内義長(大友晴英)を擁立し、大内氏の実権を握ります。

大内氏に仕えていた元就は、大寧寺の変の後も陶晴賢と通じて勢力を拡大しましたが、次第に両者は対立しました。

今よりずっと水運が重要だった当時、水上交通の要衝だった厳島はお互いに抑えたい場所でした。

さらに、軍略に優れた元就は、狭い厳島であれば少ない軍勢でも勝機があるかもしれないと考えます。

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