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栗山英樹「信じ切る」に至れば、結果に納得がいく WBC、絶不調だった村上宗隆を出し続けた理由

東洋経済オンライン / 2024年4月9日 19時0分

名前が縁で、北海道の栗山町に造った少年野球場「栗の樹ファーム」。トンボを使って自らグラウンド整備する栗山英樹さん(撮影:塚田亮平)

2023年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、監督として侍ジャパンを指揮した栗山英樹さん。「世界一」への期待を一身に受ける中、勝利のために欠かせなかったものは何だったのか——。栗山さんの野球哲学と人生の指針が詰まった書籍『信じ切る力 生き方で運をコントロールする50の心がけ』から、WBCの準決勝・メキシコ戦での“村上宗隆選手の逆転サヨナラ打”、その直前に指揮官が考えていたことについて、一部引用、再編集してお届けします。

20年以上もプロ野球の現場から離れていた

2021年11月まで北海道日本ハムファイターズの監督を10年間、務めていたこともあり、僕については「監督」というイメージを持っている人が少なくないようです。

しかし、2011年、僕のファイターズ監督就任は大変な驚きをもって迎えられていました。なぜなら僕は、1990年に現役を引退してからは、テレビのキャスターなどを務め、20年以上もプロ野球の現場を離れていたからです。

しかも、僕にはコーチの経験もありませんでした。コーチ経験もなく、20年以上も野球の現場を離れていた人間の監督就任は、日本のプロ野球の歴史でも初めてのことだったのではないかと思います。

1984年から7年間、ヤクルトスワローズに在籍した選手時代も、華やかな実績があるわけではありません。もとより僕は、甲子園にも出ていないし、大学野球で活躍したわけでもない。プロテストを受けてのドラフト外での入団でした。

なんとか入団は叶ったものの、プロの世界はレベルが想像をはるかに超えていて、当時の大きな挫折感は、今もなお忘れられないほどのものでした。さらに入団2年目からは、原因不明のメニエール病とも闘わなければなりませんでした。

1年を通して一軍で過ごした年もありました。規定打席に達しなかったものの、3割を打った年もありました。ゴールデン・グラブ賞を受賞したこともあります。しかし、何か特別な記録に残るようなものがあるわけではありません。

知っていただきたいのは、そんな僕にプロ野球の監督という大役が委ねられたということです。さらには、侍ジャパンという日本代表を率いるチームの監督まで任されることになった。そして、監督としてWBCに挑み、世界一になった。

人生は、何が起きるかわからない。僕自身、本当にそう思います。そして、こういうことは僕にだけ起こるわけではない、ということも僕は同時に思っています。驚くような未来は誰にでも待ち構えている可能性が十分にある、と。

「普通、選手に向かって言わないですよね」

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