きのこ採りで戦慄「熊の巣穴」見に行った男の末路 戦前の「人間と熊」の命がけの闘いを克明に描写
東洋経済オンライン / 2024年12月31日 14時0分
「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられた巨熊、熊撃ち名人と刺し違えて命を奪った手負い熊、アイヌ伝説の老猟師と心通わせた「金毛」、夜な夜な馬の亡き骸を喰いにくる大きな牡熊―――。
戦前の日高山脈で実際にあった人間と熊の命がけの闘いを描いた傑作ノンフィクション『羆吼ゆる山』。
長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていたがこのほど復刊された。
本稿では同書から一部を抜粋してお届けします。
きのこの狩り場
「ここを登れば、すぐ上に椎茸の出ていた木があるんだ。この辺りでは、ここよりほかに登れるところはないからな」
そう言って、六馬(編集部注:1歳上の友人)が先に立ってその絶壁を登り始めた。やや離れて、三郎(編集部注:同じ歳の友人)と私が続いた。岩の突起を探り、オーバーハング気味に上部が迫り出した壁のテラスを横に渡り、さらに岩の割れ目を伝って上へ這い上がっていった。
こうして20メートルあまりの岩壁を登りきった3人は、小笹の生えた広い緩斜面の外れに出た。そこから見上げるなだらかな斜面は、山の上へ延びて雑木の大木が立ち並ぶ山襞の岐れに至るが、その半ばからは黒々としたトドマツの林に被われており、山嶺の雪の白さと対照をなしてそれが鮮やかに浮き上がって見える。一帯は、人の手の入らない、不伐とも言うべき原生林であった。
先を歩いていた六馬が、急に振り返って言った。
「ほら、ここへ来てみれ。これが去年取り残していった椎茸だよ」
六馬が指さす方を見ると、誰かが盗伐でもしたのか、ナラの木の太い部分だけを切りとった寝木があった。木の肌一面に出た椎茸が腐らぬままに凍りついていて、指で叩くとカンカンと音がした。
「この椎茸を見つけて採り始めたとき、ほら、あそこに大きなナラの根剝(むく)れがあるだろう、あの木の根元のところで、でっかい熊が穴を掘っていたんだ。びっくりしたな。ここに伏せていて、熊が穴に入ったのを見て、この茸を採らずに逃げて帰ったんだ」
と言って六馬は、そこから30メートルほど離れたところに横たわっている、遠目にもナラの大木と判別される風倒木を指さした。
「そうか、あそこが熊の穴か。よし、分かった。中に入っているかどうか、ちょっと様子を見てくるか」
私は何気なく、向こうに見えている根剝れに近づいていった。
熊の穴
この辺りの山のように地山が岩石で形成されていて地表の浅いところでは、樹木や笹は土中深くに根を伸ばすことができず、表層にのみ根を張るものが多い。そんな木は台風などで根こそぎ倒されてしまうことがあって、それを根剝れと呼び、強風で折られた木を含めて風倒木と呼んでいる。
六馬の指さしたその根剝れの側に来て、よく見ると、倒れたナラの大木は根元近くで二股に分かれていて、どちらの幹も同じくらいの太さであった。そして根元の剝れたところは、土が小山のように盛り上がっていた。その土の山は熊が穴を掘ったときにできたもので、穴はその土の山の向こう側にあるようだ。
私はいったん斜面の下に回り込み、倒れた幹の傍らから穴へ近づいていった。盛り上がった土の壁まであと1メートルほどに接近したとき、目の前を横切る一本のゾミの木に突き当たり、行く手を遮られた。
その木は、だいぶ前に誰かが鉈のような刃物で幹に切り込みを入れて横に折り曲げたもので、それから相当永い年月が経っているらしく、切り込みの入った折り口のところは、生木が盛り上がって丸味をおびている。
折られて水平になった幹からは若い小枝が上へ隙間なく生え、それが私の前進を阻んだのだ。仕方なく、私は斜面に膝をつき、その下を這って潜り抜けた。眼前に、熊が掘り出したものと見られる土の壁があった。
立ち上がって、その壁の向こうに目をやった。
穴の入口に細いアオダモの木が生えており、その木肌に、熊が穴を掘った際なすりつけたものと思われる赤土が、乾いた状態で付着している。穴の縁には、ほんの2、3センチほど雪が積もっていて、その上にエゾリスの足跡と、きょう私の跡を追ってきた獣猟犬のノンコがたった今通りすぎていった足跡とが付いている。
右手でそのアオダモを握り、左の掌をそうっと雪の上に置き、そのままの姿勢で左手に力を入れ、一段上に足場を移して伸び上がって熊の穴を覗き込んだ。
それは、今まで想像してみたこともない、見事なまでに美しい造作であった。直径80センチ以上の大きな穴の内側に、笹の葉がびっしりと、しかもまったく同じ厚みで貼りつけてあるのだ。真ん中の洞になった部分は、直径30センチほどの正円形になっている。
さっき、この穴に近寄ったとき、広範囲にわたって付近の小笹の葉が摘みとられているのを目にし、“どうして、こんなに”と訝しく思ったが、きっとシカの群れによる採餌の痕であろうと、自分なりにその疑問にけりをつけていた。それが、穴を覗いたとたん、熊の仕業と分かって、私は驚き、目をみはった。
それにしても、野生の猛獣である羆に、こんな繊細な仕事が本当にできるものなのだろうか。そう疑いたくなるほどに、それは素晴らしい出来栄えであった。
恐怖の体験
あまりの見事さに眼を奪われて、穴の中にいるかも知れない熊のことなど、私はほとんど忘れてしまっていた。剝れ上がった根っ子の上にいた三郎と穴の左側に立っていた六馬の方を交互に見て、声に出して言った。
「おい、2人ともちょっと来てみれよ。ずいぶん綺麗にしてあるもんだぞ」
「本当か」
と言って六馬が私の横へ歩きかけたとき、さわーっと何かが動いたような気配を感じ、思わず熊の穴に顔を戻した―一瞬、体が硬直し、息が止まった。
眼前わずか30センチほどのところに、らんらんと光る目と開いた真っ赤な口、白い牙があった。ウオーッと一声吼えて、その牙が目に突き刺さるように迫り、なま温かい息が顔をなぜた。三郎がパッと根っ子の上から飛び降り、六馬が弾けるように走りだし、咄嗟に穴から身を引いた私はクルリと後ろを向き、逃げようとした体が前へ進まなくなった。“あっ、やられる”穴から飛び出た熊に背後から摑まれたと思うと同時に、体を前へ投げ、思いっきり斜面に跳んだ。
宙に浮いて一回転した体は足から先に斜面に着き、そのまま駈けだしていた。しかし、惰性のついた足は下りの斜面で勢いを増し、思いあまって目の前に見えた一本の細い立ち木に飛びついた。なんと、それは枯木であった。私は枯木を抱いたまま、もんどりうって転がった。
大嫌いな犬
したたかに斜面に叩きつけられ、やっとの思いで立ち上がった私は、体のどこにも痛みを感じていないことを知り、ほっとして後ろを振り返った。熊の穴の縁にノンコがいるのが見えた。ノンコは空の臭いを嗅ぐようなしぐさで高鼻を使っている。だが、その様子からして、まだ穴の中にいる熊には気づいていないようだ。
おそらく、ノンコは熊の吼える声を聞いて走ってきて、その辺りの臭いが一番強いと感じ、穴の縁に立って熊の居場所を突き止めようとしているのだろう。そして熊は、大嫌いな犬が来て穴の前に立ちふさがってしまったため、私を追って飛び出すこともできず、穴の奥深くに身を潜ませたものと見える。
ノンコが穴の中に目をつけて熊に戦いを挑むようなことになると、始末が悪い。私はただちにノンコを呼んだ。熊の吼えた声を耳にして気が立っていたのであろう、ノンコは一目散に走ってきた。
再び集まった3人は、互いの無事を確かめ合うと、一緒になって急斜面を辷り降り、支流の沢を下って約4キロの道程を走り通し、ようやく私の家に辿りついた。
後で判ったことだが、熊に吼えられて私が穴の縁から逃がれようとしたとき、ぐっと体が止まり、“後ろから熊に摑まれた”と思ったのは、穴へ近寄ろうとして這って潜り抜けたあのゾミの木に、下腹が引っかかって前へ進めなくなったためであった。だが、あのときは本当に熊に摑まれたように感じられ、背中から首筋のあたりがぞくっとしたのであった。
今野 保
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