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「苦情で閉店→大行列店」47歳・つけ麺店主の格闘 つけ麺日本一「YOKOKURA STOREHOUSE」の流儀

東洋経済オンライン / 2025年1月11日 8時30分

篠塚さんはサッカーを忘れるために料理に没頭した。働いて家に帰り、寝る寸前まで料理書を読むという夢中の日々を過ごした。10年間でビストロからレストラン、そして最後はグランメゾンのお店にまで上り詰めた。

10年間の料理人人生を終え、その後2年間サラリーマンをやってみたが、いったい自分は何をやりたいんだろうと再び我に返る。

この頃、母親が癌を患う。篠塚さんの実家は餃子の「みんみん」の支店を営んでいた。このままではお店が続けられないと思い、篠塚さんは弟の大介さんと2人でラーメン屋を開こうと話し合う。ラーメン屋なら実家の店がそのまま使えると思ったからだ。

こうして2009年5月に「中華蕎麦 サンジ」をオープン。大介さんは近くの焼きそば屋で製麺機を借りて、麺の勉強をした。

極太のつけ麺を提供すると決めていたので、製麺所の麺ではなく自家製麺とハナから決めていたのであった。ある種のミーハー心から始まったラーメン作りだった。

栃木を含めた北関東はこれといった誇れるものがなく、おいしいラーメン店を作ることで誇れる街にしようと立ち上がった。

しかし、オープンして半年以上は閑古鳥だった。仕込んだスープや具材はほとんど廃棄する日々が続いた。

努力の末に行列店になるも、閉店を余儀なくされる

しかし、粘り強く営業を続けていくと、少しずつ口コミが広がるようになり、徐々にお客さんが増えていった。その後行列ができるようになったが、駐車場問題で近隣からクレームが出るようになり、従業員の問題も重なって、閉店を余儀なくされる。

「私は地域貢献のために『サンジ』を作りました。しかし、行列や駐車場問題で心が折れました。近隣の人たちに必要とされていないお店だったんだと思いました。親父と言い合いをしてまでオープンしたお店だったのに、閉めることになり本当に悔しかったです。

『ラーメン屋になるのが夢だった』と皆さんよく言いますが、大体の人がセカンドキャリアでラーメンを選んでいることが多いと思います。夢ならばセカンドキャリアではなく最初から目指すもの。

ですので、私は簡単にラーメン屋が夢だったとは言えません。でも、閉店は物凄く悔しかった」(篠塚さん)

「サンジ」を閉店し、しばらくひきこもりの日々が続く。そんななか、家でアメリカのポートランドの飲食店やデンマーク・コペンハーゲンの「ノーマ」の映像を観て、何もない場所でも料理を作る「人」の魅力があれば素晴らしいお店を作ることができることを知る。

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