鎌倉幕府は“いい国”ではない!? 歴史教科書の昔と今
2018年5月29日更新
新史料の発見や発掘調査などによって歴史上の人物や出来事の解釈が変わり、過去の話にも関わらず歴史は“進化”しています。そういった学説の変化を反映して、歴史の教科書も書き換えられていくため、中高年世代と現在の学生が学んでいる内容には違いがあり、たびたび話題になることも。そんな歴史教科書の昔と今の違いなどをまとめてみました。
ここまで違う!? 昔と今の日本史
「聖徳太子」が「厩戸皇子」に?
日本史の教科書から、「聖徳太子」という名前が消えている。これは「聖徳太子」という名前が、真田幸村のように死後に付けられた尊称で、生前名乗っていた「厩戸皇子」が正式な表記として記載されているため。
後年、聖徳太子と呼ばれるようになった人物は、推古天皇の時代に確かにいた。
しかし、その人物は「厩戸王(うまやどのおう)」あるいは「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ぶべきであり、当時、「聖徳」と尊称されていたわけではなかった。以前の教科書では、「聖徳太子は、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した政治の中心人物」と記述されていたが、現在では、同時代の蘇我馬子(そがのうまこ)とともに共同で執政した人物と理解されている。決して、聖徳太子(厩戸王)ひとりが政治のリーダーシップを執り、すべてを決めていたわけではないのだ。
ネットの反応
【史実】厩戸皇子の件を、詳しく紹介しています。それにしても、この20年で、学校で教える日本史もかなり変化しましたね >あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ ここまでわかった!「日本史」の最新常識https://t.co/MAsoQzUwyT
— 歴史ナビ (@rekinavi) 2016年5月27日
現在、教科書の一部は「聖徳太子」ではなく「厩戸皇子」と記述されていると聞くが、現行の教科書の記述はどのようになっているのだろうか(小・中・高)。(国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館)http://t.co/GYnIZnOKnw
— 国立国会図書館レファ協公式 (@crd_tweet) 2014年2月20日
この前ちっとショックな話聞いたんだけど日本史とかの教科書でもう聖徳太子って表記あんましないらしいね、、
— かるび/6月執行予定 (@rice______kalbi) 2018年5月17日
厩戸皇子って表記するの漢字めんどくさいからやだ
そういえばこの前テレビで今は社会の授業で聖徳太子という名前では呼ばない・・・、厩戸皇子と呼んでいる・・・みたいな事が言われていたので子供(6年生)の社会の教科書を数ページ見てみましたが、普通に「聖徳太子」って書いてありました。
— アラタ@2児パパ(ツール作成中) (@arata01true) 2018年5月15日
テレビはあてにならん><
日本最古のお金が「和同開珎」から「富本銭」に
(承前)奈良・薬師寺の「国宝東塔 水煙降臨展」では、東塔の基壇下から見つかった和同開珎も見ることができます。工事前に、地鎮めのためにまかれたと考えられています。(栗) pic.twitter.com/pnYsfbGZ7S
— 朝日新聞奈良総局 (@asahi_naraken) 2015年10月2日
日本で最も古いお金といえば708(和同元)年に製造された「和同開珎」。大抵の人が、そう答えると思います。でも実は、平成に入り、和同開珎より古い貨幣が発見されたのを知っていますか?
【萌える日本史講座】飛鳥時代の #仮想通貨、中国と一線…最古の「富本銭」は国づくりの根幹だった - 産経ニュース https://t.co/rj0ibhHmBV @SankeiNews_WESTさんから #バブル #ビットコイン #NEM pic.twitter.com/0tnSVHvryg
— 産経ニュースWEST (@SankeiNews_WEST) 2018年2月16日
その名も「富本銭(ふほんせん)」。大きさは十円玉ほどで、直径平均24㎜で中央に四角い6㎜の穴が空いています。造幣局さいたま支局には、貨幣年表に富本銭のパネル展示があります。
ただしこの富本銭、いわゆる通貨として使われたのではなく、加持祈祷(かじきとう)に使用されていた、護符のようなものだった、という説もあります。
ネットの反応
#今の大人は知らない
— テト👸🏰 (@HAS902116) 2017年11月25日
日本最初の貨幣は和同開珎ではなく富本銭(これしか浮かばなかった)
たまった新聞を読んでびっくり。歴史の教科書は変わっており、日本最古の貨幣ほ『和同開珎』ではなく『富本銭』??
— おばけスタンプ (@zowazowamori) 2017年12月17日
教わった知識が違うって、自分の土台がグラグラ揺らぐかんじ。
教育って本当に大切…
息子が「日本最古の貨幣はなーんだ」と、いかにも習いたての言葉を駆使して訊いてきた。僕は自信と確信をもって「和同開珎」と応えた。すると奴はニヤリと笑い「パパはそう習ったかもね。でも、正解は富本銭なんだよ」と。本当だな!絶対だな!と反撃したいが混乱したら困るのでやめとく。
— Kazushige Nojima (@sgwr1) 2014年3月31日
大化の改新が「645年」から「646年」に
大化元年(645)6月12日、『日本書紀』によればこの日、蘇我入鹿が暗殺されました(乙巳の変)。以降の政治改革が「大化の改新」と呼ばれます。画像は林羅山旧蔵の慶長15年版『日本書紀』ですhttps://t.co/k8zd9NUBlN pic.twitter.com/WWcohH7DZU
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2016年6月12日
ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。
ちなみに、立命館大学の山尾幸久名誉教授は自ら「異端」と認めつつ、「大化の改新はそもそもなかった」説を語っています。
「『日本書紀』の孝徳紀には645~647年、天皇が11の詔を下したとあります。漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ。こうした点を総合的に判断すると、大化の改新なるものは疑う必要がある」
ネットの反応
むかしは、蒸し米炊いて大化の改新~(645)と覚えていましたが、現在の教科書では乙巳(いっし)の変で、翌年の646が大化の改新になっていますね。#中居の身になる図書館
— 家庭教師サボ (@sabo18573) 2018年1月22日
きのう蘇我蝦夷が自害して、きょうは軽皇子が即位しました(645年)。皇極天皇の同母弟で娘婿でもある人ですが、日本の古代史のなかではうっかり忘れられてしまいがち。大化の改新(646年)を宣言したのはこの人でした。
— あすとろ出版 (@AsutoroPUB) 2012年7月12日
中大兄皇子と中臣鎌足、645年に大化の改新!ってことは有名ね。でも645年に全て改新したわけじゃないの。645年は、2人が蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼす乙巳の変。646年に「改新の詔」で田荘・部曲を廃止して公地公民制を目指す政策がしめされたわ。これらの諸改革を大化改新と呼ぶのよ。
— 日本史たん (@nihonshitan) 2018年2月5日
遣唐使「廃止」から「中止」に
今日は吉備真備(きびのまきび)の忌日。宝亀6年(775)の10月2日に亡くなりました。遣唐使として入唐し、様々な学問・文化を日本に持ち帰り、右大臣まで上りました。画像は昌平坂学問所旧蔵の仮名草子『安倍晴明記』で、真備が玄宗皇帝の前で謎の暗号「野馬台詩」の解読に臨む場面です。 pic.twitter.com/bIrheebL3y
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2017年10月1日
894年に菅原道真の意見により「廃止」になったとされた遣唐使は、結論を先送りしているうちに結果として遣唐使が終わってしまったとの見方により、「廃止」ではなく「中止」の記述に変わった。
ネットの反応
「894(寛平6)年に遣唐大使に任じられた菅原道真は、…派遣の中止を提案し、結局、この時の遣唐使は派遣されずに終わった。」(山川出版社『詳説日本史』)さすがに教科書にも「遣唐使廃止」とは書いてないが、この考え方も古いということか。
— 鈴木和裕 (@kazu_mha) 2018年1月26日
「894年の遣唐使派遣を停止(中止)することを菅原道真が提案した」ことは,高校教科書に載せなくてもいいんじゃないか。9世紀後半には遣唐使が派遣されなくなっていたことが記述されていれば十分じゃないのか。そう思う。
— 塚原哲也 (@tsukatetsu) 2016年9月19日
歴史の教科書が自分の時代に比べてかなり変わってる事に驚く。
— いろは@和風デザイン (@hananooto_web) 2018年5月9日
894年に遣唐使廃止➡︎日本独自の国風文化栄えるって習ったけど、
現在は、遣唐使「中止」の記述に変わったらしい。しかも国風文化も中国の影響をばっちり受けているっていう。
鎌倉幕府の成立年が「1192年」から「1185年」に
〈いい国(1192)作ろう鎌倉幕府〉は有名な語呂合わせのひとつだったが、現在の小中学校の教科書では使われていない。
「弊社では鎌倉幕府が開かれたのは1185年としています。源頼朝は、征夷大将軍になった1192年より以前の1185年に守護・地頭を置き権力基盤を築いていました。よって実質的な開幕として1185年としているのです」(教科書出版社・東京書籍の社会編集部の編集者)
最近では「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番だ。
ネットの反応
子供の頃1192年と教わった鎌倉幕府の成立年。近年は源頼朝が全国に守護・地頭を置き、実質的に国の仕組みを整えた1185年が幕府の始まりとされるようになりました。「いいくに(1192)つくろう」と覚えた年号の語呂合わせ、「いいヤゴ(1185)飼おう」とでもなるのでしょうか。
— 日経新聞 記事審査部(校閲担当) (@nikkei_kotoba) 2016年4月19日
@AP_seian ☆私も、先日中学3年生の娘が勉強しているのを見て、自信満々に鎌倉幕府は1192年と言って笑われてしまいました。(笑)☆M
— 大阪府警察防犯情報 (@OPP_seian) 2014年10月22日
えええっ!!!!!鎌倉幕府が開かれたのって、「1192年」じゃないの??教科書の衝撃、すごい……!!!いまの教科書!?1185年なの?!け、研究って移り変わるんだなぁ……!
— よっぴー (@yoshidahisanori) 2012年8月2日
山川出版社『詳説日本史』など、教科書をよく読んでみて下さい。「鎌倉幕府は1192年に成立」という視点でも理解できる記述の仕方をしています。「1185年に成立」と断言しているわけではないです。ちなみに僕は「成立した年はどうでもいい」と授業で言ってますが。
— 鈴木和裕 (@kazu_mha) 2018年4月23日
11年に渡る内乱「応仁の乱」が「応仁・文明の乱」に
将軍家の跡継ぎをめぐる問題や有力守護大名の対立によって起きたとされた応仁の乱(1467~77年)は、教科書によって「応仁・文明の乱」と表記されている。
ネットの反応
清水書院の中学の歴史の教科書は「応仁・文明の乱」表記なんだな。
— 山下ゆ (@yamashitayu) 2017年1月25日
あと「応仁の乱」じゃなくて「応仁・文明の乱」と言っていたなあ。応仁元年に始まったけれど、文明になってからの方が長かったから、そう言うらしい。これも、最近の教科書の教え方なのかしら。
— 樫田 レオ@6/30『銀月の夜、さよならを言う』発売 (@kashidaleo) 2012年6月27日
最近の歴史教科書の用語に絡めていえば、タイトルが「応仁・文明の乱」じゃなくて馴染みのある「応仁の乱」だったのもよかったのかも。 / “新書:「不人気」応仁の乱、異例のヒット 背景にSNS - 毎日…” https://t.co/sXMvzSGgqm #歴史 #中世 #学問 #研究
— うさたろう (@usataro1999) 2017年2月19日
余談ですが、上のツイートで触れられている『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一・著/中央公論新社)は、出版取次大手・トーハンの「2017年 年間ベストセラー」で8位に入るヒット書籍となっています。
江戸時代の政策「鎖国」の表現変更
占部 「歴史を読み解くキーワードというのは、一歩間違うと落とし穴に落ちるので要注意です。その典型が『鎖国』です」
教師B 「江戸時代は国を完全に閉ざしたわけではなく、オランダや中国、朝鮮とは貿易をしていたのですから、鎖国を強調するとたしかに誤解を生みやすいですね」
教師C 「今度の新しい小中学校の学習指導要領の案の段階でも、『鎖国』が消えていて話題になりましたね」
占部 「結局は『鎖国などの幕府の対外政策』(中学校)という表現で落ち着きました。いずれにしても、一つの歴史用語が誤ったイメージをつくり出すことがあるという典型的な例ですね」
一時期、「鎖国」が「幕府の対外政策」という表現になると話題になりましたが、「開国」との対応関係に配慮、「対外政策」では内容が理解しにくい、などの理由で「鎖国」の表記が復活したようです。
ネットの反応
【#文科省】 指導要領改定案を修正 歴史教科書に「#聖徳太子」「#鎖国」復活へhttps://t.co/VmsAoeZnfX
— ハフポスト日本版 (@HuffPostJapan) 2017年3月20日
国定歴史教科書の1期から2期への変化を思い出させる話。 /「聖徳太子」「鎖国」復活へ 指導要領改訂案を修正:朝日新聞デジタル https://t.co/m7hodHO6OW
— 辻田 真佐憲 (@reichsneet) 2017年3月20日
これは新事実が見付かったから表記を変更した訳ではなく、単に解釈・イデオロギーの問題なんですね。学会内の派閥の変化で教科書の内容が変わるのは避けて欲しいところです。/
— 小林泰三(作家) (@KOBAYASI_yasumi) 2017年3月20日
「聖徳太子」「鎖国」復活へ 指導要領改訂案を修正... https://t.co/kOIz4klvYi
徳川綱吉のイメージが野蛮的から開明的に
【今日の墓碑銘】
— 義視 (@kamo1868) 2018年2月18日
1709年2月19日。徳川綱吉が死去。江戸幕府の第5代将軍。戦国の殺伐とした気風を除去するため文治政治を推進。生類憐みの令を発布し「犬公方」と呼ばれたことはよく知られる。儒学を奨励し湯島聖堂を建立。また四書・易経を自ら講義した(62歳・麻疹) #死は生を最後に完成させるもの pic.twitter.com/cZ2Wv6D9SO
現在の50代が高校で日本史を学習した1980年代の教科書には、「綱吉の生活はぜいたくで、さらに大寺院を造営し、幕府の財政難に拍車をかけた」「生類憐みの令を出して犬や鳥獣の保護を命じ、その励行を厳しくしたことは、庶民の不信をいっそう募らせることになった」と記されている。綱吉の治世は、決してよくなかったことが強調されている。
ところが現在の教科書では、だいぶ違う。「綱吉は仏教にも帰依し、生類憐みの令を出して、殺生を禁じた。これにより庶民は迷惑をこうむったが、とくに犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」「神道の影響から、死や血を忌み嫌う風習を作り出し、戦国時代以来の相手を殺傷する価値観は否定された」と記述。むしろ、戦国の野蛮な価値観・風習を否定した、開明的な側面に言及しているのだ。
ネットの反応
【今夜10時 #徳川綱吉】
— NHK Eテレ編集部 (@nhk_Etele) 2018年4月10日
人間より犬を大事にし、暗君と評される5代将軍・綱吉。
しかし悪法と言われる「生類あわれみの令」は、画期的な
政策だった…!?
「#先人たちの底力 #知恵泉」4月10 日(火)夜10時 #Eテレhttps://t.co/kN0tIrwSph
【腰越図書館】旧暦の今日は、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の誕生日。生類憐みの令で民衆を苦しめた犬公方として悪いイメージが強いが、治世前半は儒学に基づいた善政をしいていました。ちなみに、井原西鶴が西鵬と名乗っていたのは、綱吉が娘の鶴姫の鶴の字を庶民が使うことを禁止したからだそうです。 pic.twitter.com/m3Zg1z4Wbd
— 鎌倉市図書館 (@kamakura_tosyok) 2018年1月8日
1ヶ月以上前にやってた「これが日本の新常識」を見てるけど、墓参りとか七五三とか忌引とかを徳川綱吉が作った素晴らしい成果を、恨みを持つ人物によってバカ殿呼ばわりされて後世に伝わってしまってるとか恐ろしすぎる。というか歴史の教科書とはいったい・・・ #tv
— ねお@よしき (@faithfulneo) 2018年5月19日
「仁徳天皇陵」から「大仙陵古墳(大山古墳)」に
ある世代から上の方なら日本最大の前方後円墳は「仁徳天皇陵」と学校で教わったかと思いますが、現在の教科書やメディアでは「大仙陵古墳」「大仙古墳」「大山古墳」などの表記が一般的になってきているようです。これは、仁徳天皇が埋葬されているか確認されていないため、所在地名に由来する「大仙古墳」などと呼ぶようになったとか。
なお、宮内庁では「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」、文化庁や地元の堺市では「仁徳天皇陵古墳」と表記していることから統一された名称はないようです。
7月13日に紹介した「関が原」は、正しくは「関ヶ原」でした。
— 国土地理院応用地理部 (@gsi_oyochiri) 2017年7月20日
また、18日に取り上げた「仁徳天皇陵」は、今は「大仙古墳」と呼ばれるそうです。(小6の社会科の教科書には、大仙(仁徳陵)古墳とありました)
ご指摘ありがとうございました!
「世界最大級」とされ、かつて「仁徳天皇陵」と呼ばれた古墳も、埋葬者は別人との説が強まり、今の教科書では「大仙陵古墳」「大仙古墳」と表記するのが普通なのだそうです/大阪)仁徳陵の陪塚、収塚古墳の前方部見つかる 朝日新聞デジタル http://t.co/GsIcvmudAU
— 北野 隆一 (@R_KitanoR) 2015年5月31日
古墳の全長がこれまでよりも40m長いと判明
そんな国内最大の古墳について今年4月、新たな事実が明らかにされました。
世界遺産登録を目指している大阪府堺市の百舌鳥古市古墳群。そのひとつ、国内最大級の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)で新事実が判明しました。
墳丘の全長がこれまでよりおよそ40メートル長い、481.13メートルではなく、525.01メートルだったことが宮内庁の調査でわかったのです。
これまでは水面上の見えていた部分で大きさを計測していました。ところが、音波などを使い水の量や深さを計測したところ、水の中にも墳丘が広がっていたことが確認されたのです。
偉人の肖像画が別人だった説
源頼朝
教科書で見た源頼朝の肖像画、実は「別人だった」だという説も──日本史研究の最前線 https://t.co/GkwuwNs20c #COLUMN pic.twitter.com/i2abKGTU3Z
— GQ JAPAN (@GQJAPAN) 2017年2月24日
冠をかぶり、口ひげをたくわえた凜々しい肖像画──。言わずもがな小中学校の授業で、鎌倉幕府を開いた〈源頼朝〉だと教えられた人物である。しかし、今ではこの男は“頼朝になりすました別人”との説が有力視され、教科書からも姿を消しつつある。
「以前使用されていた源頼朝の肖像画は、京都の神護寺所蔵の源頼朝だと伝えられてきたものです。ところがこの肖像画の人物は今では歴史学者の研究によって、頼朝ではなく足利尊氏の弟の足利直義(ただよし)とする説が有力になりました」
足利尊氏
室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その1|Japaaan https://t.co/TfKHahYgh3 #足利尊氏 #室町時代 #日本史 #歴史 pic.twitter.com/nlTd3in19X
— Japaaan (@japaaan_com) 2018年5月21日
黒い馬を颯爽と駆り、刀を肩に担いだ〈足利尊氏〉も別人だという。
「肖像画の人物は、描かれている家紋から足利尊氏とは別人だといわれ、尊氏の側近だった高師直(こうのもろなお)説などが挙げられています」(同前)
現在、足利尊氏として肖像画を掲載する教科書はほぼなく、ただの「騎馬武者像」として紹介されているのみ。
西郷隆盛
【#関東版】
— Dokka!おでかけ探検隊 (@dokka_jp) 2018年3月27日
明治150年関連施策展示 キヨッソーネの描いた西郷どん
開催日: ~4月22日
開催場所:お札と切手の博物館(国立印刷局博物館)
画像: (C)お札と切手の博物館
明治時代にお雇い外国人として印刷局の職員に当時の先進製造技術を・・・https://t.co/zOUwbcxAYA#おでかけ #お出かけ #デート pic.twitter.com/hs9XaddprV
キヨッソーネの肖像が有名だが…
有名なのは、大蔵省で印刷技術を指導していたイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネによるものだ。だが、キヨッソーネは西郷と会ったことはない。
西郷の死後、肖像を依頼されたキヨッソーネは、西郷と縁があった大蔵官僚・得能良介の助言を得て、顔の上半分は弟の西郷従道、下半分は従兄弟の大山巌の写真をもとに描いた。
今年1月には新たに発見された肖像画が話題に
1月4日の情報番組『ごごナマ』(NHK)で、新たな肖像画が発見されたと報じられた。
肖像画は現在、鹿児島市にある「西郷南洲顕彰館」で保管されている(「南洲」は西郷の号)。この肖像画の持ち主である鹿児島県枕崎市在住の丸谷昭子さん(83)が語る。
「小さい頃から、祖父が『これは西郷さんを描いたものだ』と言っていました。家の仏間に飾ってあったんです。昨年秋頃、明治維新150周年や『西郷どん』などで西郷隆盛が話題になっていたため、この肖像画がどういうものか気になり、知人を介して顕彰館にお持ちしたんです」
写真を1枚も残していないため“本当の顔”はわからず…
西郷の肖像が話題になるのは、西郷が1枚の写真も残していないからとされています。東京・上野にある犬を連れた銅像も、顔はキヨッソーネが残した肖像を元に作られたものだとか。そして、この有名な銅像に関するエピソードが「西郷隆盛の本当の顔」をめぐるミステリーを生んだきっかけとなっています。
この像を見た妻のイトが「主人はこんな人じゃない」という意味の発言をしたことから、「西郷はあの顔じゃない説」が広まることになった。実はイトは顔立ちについてではなく、着流しで出歩くようなだらしない人じゃない、という意味で言ったという説もあるが、本当のところはわからない。
写真はないのに肖像画は多数存在するため、「どれが本当の顔なのか」論争は尽きないようです。