鎌倉幕府は“いい国”ではない!? 歴史教科書の昔と今

2018年5月29日更新

新史料の発見や発掘調査などによって歴史上の人物や出来事の解釈が変わり、過去の話にも関わらず歴史は“進化”しています。そういった学説の変化を反映して、歴史の教科書も書き換えられていくため、中高年世代と現在の学生が学んでいる内容には違いがあり、たびたび話題になることも。そんな歴史教科書の昔と今の違いなどをまとめてみました。

ここまで違う!? 昔と今の日本史

「聖徳太子」が「厩戸皇子」に?

日本史の教科書から、「聖徳太子」という名前が消えている。これは「聖徳太子」という名前が、真田幸村のように死後に付けられた尊称で、生前名乗っていた「厩戸皇子」が正式な表記として記載されているため。
後年、聖徳太子と呼ばれるようになった人物は、推古天皇の時代に確かにいた。
しかし、その人物は「厩戸王(うまやどのおう)」あるいは「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ぶべきであり、当時、「聖徳」と尊称されていたわけではなかった。以前の教科書では、「聖徳太子は、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した政治の中心人物」と記述されていたが、現在では、同時代の蘇我馬子(そがのうまこ)とともに共同で執政した人物と理解されている。決して、聖徳太子(厩戸王)ひとりが政治のリーダーシップを執り、すべてを決めていたわけではないのだ。

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日本最古のお金が「和同開珎」から「富本銭」に

日本で最も古いお金といえば708(和同元)年に製造された「和同開珎」。大抵の人が、そう答えると思います。でも実は、平成に入り、和同開珎より古い貨幣が発見されたのを知っていますか?
その名も「富本銭(ふほんせん)」。大きさは十円玉ほどで、直径平均24㎜で中央に四角い6㎜の穴が空いています。造幣局さいたま支局には、貨幣年表に富本銭のパネル展示があります。
ただしこの富本銭、いわゆる通貨として使われたのではなく、加持祈祷(かじきとう)に使用されていた、護符のようなものだった、という説もあります。

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大化の改新が「645年」から「646年」に

ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。

ちなみに、立命館大学の山尾幸久名誉教授は自ら「異端」と認めつつ、「大化の改新はそもそもなかった」説を語っています。

「『日本書紀』の孝徳紀には645~647年、天皇が11の詔を下したとあります。漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ。こうした点を総合的に判断すると、大化の改新なるものは疑う必要がある」

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遣唐使「廃止」から「中止」に

894年に菅原道真の意見により「廃止」になったとされた遣唐使は、結論を先送りしているうちに結果として遣唐使が終わってしまったとの見方により、「廃止」ではなく「中止」の記述に変わった。

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鎌倉幕府の成立年が「1192年」から「1185年」に

〈いい国(1192)作ろう鎌倉幕府〉は有名な語呂合わせのひとつだったが、現在の小中学校の教科書では使われていない。
「弊社では鎌倉幕府が開かれたのは1185年としています。源頼朝は、征夷大将軍になった1192年より以前の1185年に守護・地頭を置き権力基盤を築いていました。よって実質的な開幕として1185年としているのです」(教科書出版社・東京書籍の社会編集部の編集者)
最近では「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番だ。

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11年に渡る内乱「応仁の乱」が「応仁・文明の乱」に

将軍家の跡継ぎをめぐる問題や有力守護大名の対立によって起きたとされた応仁の乱(1467~77年)は、教科書によって「応仁・文明の乱」と表記されている。

ネットの反応

余談ですが、上のツイートで触れられている『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一・著/中央公論新社)は、出版取次大手・トーハンの「2017年 年間ベストセラー」で8位に入るヒット書籍となっています。

江戸時代の政策「鎖国」の表現変更

占部 「歴史を読み解くキーワードというのは、一歩間違うと落とし穴に落ちるので要注意です。その典型が『鎖国』です」
教師B 「江戸時代は国を完全に閉ざしたわけではなく、オランダや中国、朝鮮とは貿易をしていたのですから、鎖国を強調するとたしかに誤解を生みやすいですね」
教師C 「今度の新しい小中学校の学習指導要領の案の段階でも、『鎖国』が消えていて話題になりましたね」
占部 「結局は『鎖国などの幕府の対外政策』(中学校)という表現で落ち着きました。いずれにしても、一つの歴史用語が誤ったイメージをつくり出すことがあるという典型的な例ですね」

一時期、「鎖国」が「幕府の対外政策」という表現になると話題になりましたが、「開国」との対応関係に配慮、「対外政策」では内容が理解しにくい、などの理由で「鎖国」の表記が復活したようです。

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徳川綱吉のイメージが野蛮的から開明的に

現在の50代が高校で日本史を学習した1980年代の教科書には、「綱吉の生活はぜいたくで、さらに大寺院を造営し、幕府の財政難に拍車をかけた」「生類憐みの令を出して犬や鳥獣の保護を命じ、その励行を厳しくしたことは、庶民の不信をいっそう募らせることになった」と記されている。綱吉の治世は、決してよくなかったことが強調されている。
ところが現在の教科書では、だいぶ違う。「綱吉は仏教にも帰依し、生類憐みの令を出して、殺生を禁じた。これにより庶民は迷惑をこうむったが、とくに犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」「神道の影響から、死や血を忌み嫌う風習を作り出し、戦国時代以来の相手を殺傷する価値観は否定された」と記述。むしろ、戦国の野蛮な価値観・風習を否定した、開明的な側面に言及しているのだ。

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「仁徳天皇陵」から「大仙陵古墳(大山古墳)」に

ある世代から上の方なら日本最大の前方後円墳は「仁徳天皇陵」と学校で教わったかと思いますが、現在の教科書やメディアでは「大仙陵古墳」「大仙古墳」「大山古墳」などの表記が一般的になってきているようです。これは、仁徳天皇が埋葬されているか確認されていないため、所在地名に由来する「大仙古墳」などと呼ぶようになったとか。
なお、宮内庁では「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」、文化庁や地元の堺市では「仁徳天皇陵古墳」と表記していることから統一された名称はないようです。

古墳の全長がこれまでよりも40m長いと判明

そんな国内最大の古墳について今年4月、新たな事実が明らかにされました。

世界遺産登録を目指している大阪府堺市の百舌鳥古市古墳群。そのひとつ、国内最大級の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)で新事実が判明しました。
墳丘の全長がこれまでよりおよそ40メートル長い、481.13メートルではなく、525.01メートルだったことが宮内庁の調査でわかったのです。
これまでは水面上の見えていた部分で大きさを計測していました。ところが、音波などを使い水の量や深さを計測したところ、水の中にも墳丘が広がっていたことが確認されたのです。

偉人の肖像画が別人だった説

源頼朝

冠をかぶり、口ひげをたくわえた凜々しい肖像画──。言わずもがな小中学校の授業で、鎌倉幕府を開いた〈源頼朝〉だと教えられた人物である。しかし、今ではこの男は“頼朝になりすました別人”との説が有力視され、教科書からも姿を消しつつある。
「以前使用されていた源頼朝の肖像画は、京都の神護寺所蔵の源頼朝だと伝えられてきたものです。ところがこの肖像画の人物は今では歴史学者の研究によって、頼朝ではなく足利尊氏の弟の足利直義(ただよし)とする説が有力になりました」

足利尊氏

黒い馬を颯爽と駆り、刀を肩に担いだ〈足利尊氏〉も別人だという。
「肖像画の人物は、描かれている家紋から足利尊氏とは別人だといわれ、尊氏の側近だった高師直(こうのもろなお)説などが挙げられています」(同前)
現在、足利尊氏として肖像画を掲載する教科書はほぼなく、ただの「騎馬武者像」として紹介されているのみ。

西郷隆盛

キヨッソーネの肖像が有名だが…

有名なのは、大蔵省で印刷技術を指導していたイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネによるものだ。だが、キヨッソーネは西郷と会ったことはない。
西郷の死後、肖像を依頼されたキヨッソーネは、西郷と縁があった大蔵官僚・得能良介の助言を得て、顔の上半分は弟の西郷従道、下半分は従兄弟の大山巌の写真をもとに描いた。

今年1月には新たに発見された肖像画が話題に

1月4日の情報番組『ごごナマ』(NHK)で、新たな肖像画が発見されたと報じられた。
肖像画は現在、鹿児島市にある「西郷南洲顕彰館」で保管されている(「南洲」は西郷の号)。この肖像画の持ち主である鹿児島県枕崎市在住の丸谷昭子さん(83)が語る。
「小さい頃から、祖父が『これは西郷さんを描いたものだ』と言っていました。家の仏間に飾ってあったんです。昨年秋頃、明治維新150周年や『西郷どん』などで西郷隆盛が話題になっていたため、この肖像画がどういうものか気になり、知人を介して顕彰館にお持ちしたんです」

写真を1枚も残していないため“本当の顔”はわからず…

西郷の肖像が話題になるのは、西郷が1枚の写真も残していないからとされています。東京・上野にある犬を連れた銅像も、顔はキヨッソーネが残した肖像を元に作られたものだとか。そして、この有名な銅像に関するエピソードが「西郷隆盛の本当の顔」をめぐるミステリーを生んだきっかけとなっています。

この像を見た妻のイトが「主人はこんな人じゃない」という意味の発言をしたことから、「西郷はあの顔じゃない説」が広まることになった。実はイトは顔立ちについてではなく、着流しで出歩くようなだらしない人じゃない、という意味で言ったという説もあるが、本当のところはわからない。

写真はないのに肖像画は多数存在するため、「どれが本当の顔なのか」論争は尽きないようです。