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「不採用を一転、年金局に配属」あきらめの悪い男 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#1

東洋経済オンライン / 2024年4月15日 9時0分

年金制度が産声をあげた頃、年金官僚が輝いていた時代は、確かに存在した(写真:soraneko/PIXTA)

いまから20年前、「100年安心」というキャッチーな言葉が2004年の年金改革を象徴するものとなり、いまに至る年金制度に息づいている。それは、年金官僚が政治の前に無力だった屈辱の1ページである。しかし、年金制度が産声をあげた頃、年金官僚が輝いていた時代は、確かに存在した。

ここでは、『週刊文春』の記者として年金問題を追い続けてきた和田泰明氏の著書『ルポ年金官僚』から一部を抜粋。厚生事務次官、さらに霞が関官僚機構の頂点である内閣官房副長官(事務)を5代の内閣、8年7カ月にわたって務めた古川貞二郎が入省した当時の厚労省年金局の攻防を紹介する。

(全3回の1回目)

元首相の不在

2022年9月17日午後。空はどんよりと曇っているが、夏はまだ残っていて、黒ずくめのスーツでは汗ばむほどだ。港区芝公園の増上寺光摂殿に、750人もの喪服を着た人々が集まった。営まれたのは、9月5日に87歳で死去した古川貞二郎の「お別れの会」である。

【写真】古川貞二郎がコメントを赤字で詳細に書き込んだ原稿

整然と並ぶスタッキングチェアの最前列に、マスクをした老人が、杖を手にどっかりと座っている。森喜朗である。その後ろの席は、マスクをつけていない小泉純一郎と福田康夫がいた。しかしこの「元首相」たちの中に、本来いるべき人の姿はなかった。

2カ月前、銃弾に倒れた安倍晋三である。

古川は、厚生事務次官、さらに霞が関官僚機構の頂点である内閣官房副長官(事務)を5代の内閣、8年7カ月にわたって務めた。20歳年下の安倍とは、森、小泉政権にかけ、福田官房長官の下、ともに官房副長官だった間柄だ。2003年9月、古川が勇退する時、安倍も官邸を去った。現行の年金制度に連なる「100年安心年金」の法案成立に向け、空前の「年金ブーム」が巻き起こっていた頃だ。

年金は、二人に深く関係している。

古川は、国民年金法が成立した翌年の1960年に厚生省に入省。発足したばかりの年金局で駆け出しの5年間を過ごし、国民皆年金制度スタートを間近で見てきた。

安倍は2000年に成立した「ミレニアム改正」に自民党社会部会長として携わった。「年金ブーム」の2004年改正では、官房副長官、党幹事長として保険料率などの調整役を担った。総理に就くと、社会保険庁の後継組織「日本年金機構」の名づけ親となった一方、「消えた年金記録問題」に足をすくわれ、辞任に追い込まれた。2012年にカムバックを果たし、巨額の年金積立金を扱うGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)改革にメスを入れた。

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