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「介護地獄」で夫の布団に火をつけた60代妻の今

プレジデントオンライン / 2019年8月27日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/chonticha wat

夫と義母の「ダブル介護」に追い詰められた女性が、自宅に火をつけ、無理心中を図った。放火と殺人未遂の罪に問われた女性は裁判で、「私みたいな人をこれ以上出さないでください」と話した。読売新聞社会部の著書『孤絶 家族内事件』(中央公論新社)より、60代女性の事例を紹介する——。(第2回)

※本稿は、読売新聞社会部『孤絶 家族内事件』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

■「一言、夫から気づかいの言葉があれば……」

「介護も食事も嫁がやるのが当たり前という感じで、何も感謝をしてもらえませんでした」

2016年10月21日、東京・小菅の東京拘置所の面会室。訪れた記者の前に、ピンクの部屋着で座った小柄な女性(68)は、事件の経緯を語り始めた。自らの裁判員裁判の判決が、3日後に東京地裁で予定されていた。

同年2月、都内の自宅で当時の夫(69)と無理心中しようと考え、寝室に火をつけた。現住建造物等放火と殺人未遂の罪に問われ、検察は懲役5年を求刑した。

「事件は本当に申し訳ない。でも一言、夫から気づかいの言葉があれば……」。女性を追い詰めたのは、長年の「ダブル介護」だった。

女性は、東海地方の貧しい農家で生まれた。両親は農作業に追われ、家事は子どもがするものだった。東京に出るとデパートで働き、「合コン」で知り合った男性と交際した。それから山あり谷ありの人生を送って、その男性と50歳で結婚した。

義母との3人暮らし。その義母はすでに認知症が始まっていて、結婚すれば介護するのは自分だと覚悟していた。症状は見る間に進み、一日に何度も「今日は散歩に行ってない」と徘徊を繰り返すようになった。

■体が不自由になった夫に当たり散らされる

3年後、夫が脳梗塞で倒れて徐々に右足が動かなくなり、義母も寝たきりになった。

過酷なダブル介護だった。朝6時に起床し、まず2人の排泄の世話をする。女性は体重44キロの体で、85キロもある夫を2階の寝室から1階の居間に降ろさないといけない。肩をかついで支え、夫の足を片方ずつ動かして階段を降りた。朝食のトーストとスープ、ヨーグルトを食べさせると、午後は高齢者施設の清掃などのパートだ。午後2時から4時まで働いて帰宅すると、夕食の準備をし、2人を風呂に入れる――。寝られるのは未明の1時頃という日々が続いた。

女性は家事をしながら眠り込み、気づくと台所の床で朝を迎えていたこともあった。ほかの親族が協力してくれることはなく、夫は「お前がやっていればいいんだ」と当然のように言った。体が不自由になってからはストレスをため込んでいたのか、何かにつけ妻に当たり散らすようになっていた。義母を施設に入れることも、デイケアを利用させることも、夫は「金がかかる」と反対した。

そんな生活でも、うれしかったのは、認知症の義母が寝る間際に言ってくれる「ありがとう」「明日も頼むね」という言葉だった。

■精神安定剤と睡眠薬に頼り「もう死んじゃいたいな」

「よく介護してもらったことで、風邪もひかず、体重も減らなかった」。義母のケアマネジャーだった男性は、女性の献身ぶりをそう評価する。自分の家族だけでなく、近所の人の介護の手助けまでした。近くに住む主婦は、女性がトイレで動けなくなったお年寄りの家に駆けつけ、介助した時の手際のよさが忘れられない。

それでも夫は、「お茶がぬるい」などと細かいことでつらく当たった。女性は地元の地域包括支援センターにも相談した。しかし、担当者は「あなたは嫁さんで他人なわけだし、そんなに嫌なら家を出ればいい」と冷たかった。義母のことは好きだから、見捨てるわけにはいかないのに。「誰も分かってくれないんだ」という思いにとらわれた。

次第に眠れなくなり、精神安定剤や睡眠薬に頼った。安らぐのは介護の合間に般若心経を読む時だけだった。「もう死んじゃいたいな」とも考えるようになっていた。

■「何もかも壊してしまおう」と灯油をまいた

女性は、事件の夜に夫との間で起きた三つの出来事を、直接の「引き金」に挙げる。

一つ目は、夕食のカキフライを「なんでいつも作っているのにこんなにまずいんだ」と怒られたこと。

二つ目は、風呂場で夫の髪や体を洗っていたら、洗い方が悪いと言われ、頭をたたかれたこと。

三つ目は、未明に家事を終えて寝室に行くと真っ暗だったこと。先に寝る夫は、いつもは電灯をつけていて、「これがこの人の優しさなのかな」と思っていたのに。

存在を否定されたように感じた。「何もかも壊してしまおう」と思った。

納戸からタンクを取り出し、灯油を夫の布団の周りにまいた。火をつけたろうそくをそばに立て、自分も隣の布団に潜り込んだ。

もうろうとした意識の中で、周りが明るくなり、夫が声を上げたのを覚えている。壁や天井が燃え、消防隊が消し止めて女性と義母は無事だったが、夫は約5カ月の火傷を負った。女性は逮捕され、夫側の求めで離婚した。

■「私みたいな人をこれ以上出さないでください」

「介護を一人に任せないでください。私みたいな人をこれ以上出さないでください。地域の皆さんで力を合わせて、地域のおじいさんやおばあさんはどうしているかな、と見に行ってください……」。同年10月14日、地裁で被告人質問に臨んだ女性は裁判員らを前に涙を流した。

放火と殺人未遂の罪で起訴された被告に対し、法廷の空気は厳しかった。近隣に延焼すれば多数の人命を脅かしかねない放火は、重い刑になることが多い。裁判長は質問の最後、「重大さを分かっているのか」と問いつめた。

そして24日。判決の主文は、「懲役3年、執行猶予5年」だった。

裁判長は判決理由で、犯行の背景と動機を次のように認定した。

「被告の人生は2人の介護にそのほとんどが費やされ、被告なりに懸命に努力していた。ところが、事件前日、介護による疲れの中で、被害者から怒られるなどし、自らの存在・努力を否定されたと思い、いつまでこんな生活が続くか分からないし死にたい、自分が死んだ後に被害者だけ残すのはいたたまれないなどと考え、犯行に及んだ」

■元夫「お前の人生を台無しにしてごめん」

判決は、放火という危険な犯行であることなどを踏まえ、「ただちに執行猶予にすべき事案とはいえない」とも述べたが、その一方で、女性に有利な事情として元夫の心情に言及した。地裁が入院先で証人尋問を行った際、元夫は、事件の夜の出来事について女性と一部食い違う証言をしつつも、「釈放してやってほしい」と話していたからだ。

尋問に立ち会った50歳代の元裁判員の男性は、取材に対し、「(元夫は)妻への態度は自分が悪かったと反省していた」と振り返る。

判決の2日後、拘置所を出た女性は、病院へ向かった。元夫に謝罪すると、「もっと理解してあげれば良かった。お前の人生を台無しにしてごめん」と謝ってくれた。少し救われた気がした。

その後すぐ、東海地方の街のアパートで一人暮らしを始めた女性に、記者はこれからどうするのかと聞いた。

「介護の仕事をしようかな」。自身を振り返り、「追い詰められている人を一人にしたくない」と思うからだという。

■介護施設で働き、団地では自治会長を務める

判決から1年半が過ぎた2018年5月、記者は女性を訪ねた。取材後も続いた手紙のやりとりで、近所の介護施設で洗濯や掃除のパートをしていること、住んでいる団地の棟の自治会長に選ばれたことなどを知らされていた。

古びた団地の2階に上がり、呼び鈴を押すと、元気な返事が聞こえた。髪を短くし、少しだけふくよかになったように見える。室内には家具がほとんどなく、ラジオの音が小さく流れていた。

「今は仕事が楽しい」。この日は休みだという女性は笑顔で話し始めた。求人広告で見つけた介護施設での仕事は、食器洗いやシーツの洗濯、入所者の水分補給のための湯沸かし、共有スペースの窓ふきなど。平日は午前9時から働き、夕方、帰宅する頃にはくたくたになるが、「忙しい方が、過去を思い悩まずに済む」という。

利用者とは掃除の際にすれ違うくらい。それでも、「みんな私をかわいがってくれる」といい、話し相手にもなる。気がかりなのは、家族がほとんど会いに来ず、寂しそうにしている人がいることだ。女性は、自身の経験から、家族が追い詰められるまで無理をして自宅で介護する必要はないと考えているが、預けっぱなしにする家族にも首をかしげてしまう。自宅でも施設でも、介護する側もされる側も、家族の思いやりのない対応が一番、本人をつらくさせるのに。

■孤立から救うのは「役立つ実感」と「ねぎらい」

自治会長として近所づきあいをする中にも葛藤はあるという。近所の認知症の高齢男性がたびたび徘徊し、付き添う家族の姿を見かけた。被告人質問で、地域で高齢者を支えてほしいと訴えたが、今の自分にできるのは、「何かあったら言ってください」と声をかけることくらいだ。かつて自身がそうだったように、要介護者がいることを「家の恥」と考える家族に周囲が関わっていくのは、やはり難しいのだと感じる。

読売新聞社会部『孤絶 家族内事件』(中央公論新社)

それでも女性は「精いっぱい人の役に立ちたい」と前向きに語った。自分に介護が必要な状態になった時のことを考えると不安だが、それまでは少しでも介護の現場で働くことが、償いにもなると思うからだという。

記者が話を聞いている間、女性の携帯電話に介護施設から何度もメールが届いた。利用者の状況を職員にメールで知らせているのだという。「あの人、今日もお風呂に入りたくないと、ごねたのね」。そう言って、ほほえんだ。

介護する人の孤立感を和らげるのは、自分が役に立てているのだという実感と周囲のねぎらいなのだろう。女性の笑顔は、そのことを物語っているように見えた。

(読売新聞社会部)

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