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インド人がトヨタに目もくれず、スズキの小型車を溺愛する理由

プレジデントオンライン / 2020年6月12日 9時15分

スズキの鈴木修会長 - 撮影=上野英和

人口13.5億人の巨大市場・インドで、スズキは圧倒的なシェアを確立した。スズキの鈴木修会長は「最初から第三者ではなく、当事者として言うことは言う。分け隔てなく接したことで、インドの人たちが仲間だと思ってくれるようになった」という——。(聞き手・構成=ノンフィクション作家・野地秩嘉)

※本稿は、グルチャラン・ダス、野地秩嘉『日本人とインド人』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「個室は絶対認めない」事務所は日本流の大部屋

スズキは今年(2020年)、100周年です。当社がインドに進出したのが1983年ですから、すでに40年近くが経っていることになります。おかげさまでインドで走っている車の半分は、スズキの車になっています。

2019年、インドの自動車産業は経済成長の鈍化で売れ行きが伸びませんでしたが、今後はまたさらに成長していくでしょう。

インド自動車市場のシェアランキング(2019年上半期)
1位 マルチ・スズキ・インディア 48.2%
2位 ヒュンダイ 16.0%
3位 マヒンドラ・アンド・マヒンドラ 13.2%
4位 タタ 5.6%
5位 ホンダ 5.0%
6位 トヨタ 4.2%
7位 フォード 2.5%
8位 ルノー 2.3%

インドに進出したとき、私が折衝した相手はインド政府の官僚でした。日本の官僚と同じように、国を代表して事にあたるという気概を持った方だった。四角四面の人で、ジェントルマンでした。インド人らしさや、自分の個性を出すことなく、国の代表としての意識が強かった。

ただ、いざ、会社を設立して、仕事を始めたら、インドの人たちは変わりましたね。悪く変わったわけではなく、インドの慣習、風習が前面に出てきました。たとえば、工場は「日本的な経営にする。スズキが全面的に運営する」はずだったのですが、こちらに無断でボードメンバーやマネジャークラスは自分たちの個室を作っていました。

私は言いました。

「事務所のレイアウトは日本流でやると約束したじゃないか。幹部と社員の間に壁を作るような個室は絶対に認めない」

すでにでき上がっていた個室の壁を全部取り払い、大部屋にして執務するように変えさせました。これはグルグラム(グルガオン)の工場の話です。

■インドの慣習を変えた“率先垂範”

当社が進出した1980年代の初め頃は、まだカースト制度が残っていました。当初、幹部たちは生産現場のワーカーと同じ食堂で食事をするのを嫌がりました。幹部たちはワーカーが食堂で列を作って並んでいるのを事務所の2階から見下ろして、なんともいえないといった顔をしていましたよ。

これはもう率先垂範しかありません。私以下、日本人出張者、駐在員が同じ作業服を着て、ワーカーの列の最後尾に並び、自分の順番が来るまで待ちました。

私が毎月、インドへ行って、食堂の列に並ぶものだから、半年もしたら、上のカーストのマネジャークラスも黙ってワーカーの列の後ろにつくようになりました。今は、それが当たり前になりました。ですから、私は思うのです。インド人に限らず、人間の心はどこへ行っても変わらないですよ。変わったのは風習であり、慣習だと思います。

スズキの車がインドで売れているのは運がよかったことに尽きます。そして、私たちなりに、かなりな努力をしたこともよかったのかな、と。むろん、インドのみなさんの力添えがあったからこその話ですが。

■短編映画に込めた思い「頑張れば豊かになれる」

これも進出したときの話になりますが、工場で生産を始める前、インド人の幹部、ワーカーに15分くらいの短編映画を見せました。シナリオは私が書いたものです。冒頭のシーンは戦後の焼け野原だった日本で、次に発展した日本の風景を映しました。日本も昔は貧しかったけれど、頑張れば豊かになることを知らせたかったのです。

スズキの鈴木修会長
スズキの鈴木修会長(撮影=上野英和)

年配の方以外はご存じないと思いますが、敗戦後の日本は貧困のどん底だったのです。1945年が敗戦。それから十数年間、日本人は、心のゆとりもなく、一様に精神的な行き詰まりを感じていました。

1950年、私は20歳で、ふるさとの下呂の成人式に出ました。下呂は岐阜県の山のなかの田舎です。町長さんがあのとき、こうおっしゃっていたのをよく覚えています。

「私たちは戦争に負けた。日本は廃墟になった。私はこれからも町長として頑張って日本経済の再建にまい進しなければならない。しかし、私はもう、60歳を過ぎている。頑張ることは頑張るけれど、これからの日本はみなさんのような若者に託さなければならない。私はあなたたちのような若い青年に、戦後の経済復興をお願いしたいと思う」

以来、私は、何とか日本を豊かにしたいと思い、働いてきました。そうして、日本はアメリカに追いつき追い越せでやってきたことで、成長したのです。敗戦後、私たちはずいぶんアメリカに助けられ、経済復興し、成長したのです。

そして、お礼はアメリカではなく、今度は東南アジアやインドにすればいいと思いました。それもあって、私はインドに工場を造ることにしたのです。アメリカはつねに発展していますから、恩返しは東南アジアでありインドだ、と。

■インド政府と関係が悪化したことも……

工場を造って生産を始めた直後、現地では部品調達ができませんから、ほとんどの部品は日本から持っていってフルノックダウンでやっていました。それが1985年、年間生産台数が5万台を超えた頃から、日本から部品メーカーが進出してきてくれたのです。

併せて、私たちは現地の部品会社にも技術指導をしました。そうしているうちに、インドでほとんどの部品を作れるようになり、現在では現地部品の調達率は95パーセントになっています。

1990年代の半ばになると、インドで政権の交代が起こり、私たちとインド政府は、ぎくしゃくした関係になりました。政府の人たちは「スズキは暴利をむさぼっている」と考えたらしく、もっと株主配当を増やせとか設備が高すぎる、輸入部品は高すぎると言ってきたのです。

インド国営企業とスズキの合弁会社としてスタートしていて、インド政府のほうが株式を多く保有していました。しかし、運営はスズキでしたし、スズキが部品を納入していたから、彼らはスズキが儲けていると考えていたのです。

実際はそんなことはありません。利益が出たら投資をして、会社の設備を新しくしたり、人を雇ったりしていたのです。そうしないと、競争に勝てないからです。

合流しようと列をなす車(ニューデリー、2014年3月)
写真=iStock.com/JulieanneBirch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JulieanneBirch

スズキが薄利多売でやっていることはなかなかインドの官僚に伝わらなくて、私もやや感情的になり、「こんちきしょう」と思ったこともありました。

しかし、「投資が必要だ」とハート・トゥー・ハートで話をして誠意を伝えたら、「スズキは薄利多売でインド産業の技術力のレベルアップに尽くしてくれている」とやっと理解してもらえたのです。そうして一度、ぎくしゃくしたものの、仲直りしてからは順調にやっています。

■「放っておけばいつか終わる」

その後、ストライキを打たれたこともありましてね。暴動も経験しましたし……。ただ、私は戦後の日本でも同じようなことがあったのを知っていましたから、対処に困ることはなかった。

戦後の日本では労働争議が頻発し、下山事件、三鷹事件のような不可解な事件も起こりました。当時の自称革新勢力が労働争議をリードして、全国の会社でストライキがあったのです。

けれども今思えば、あれは、「はしか」のようなものだった。

一時の熱に浮かされ、日本人はストライキを打ったのです。インド人もストライキをしたり、暴動をしたりしましたけれど、これもまた、「はしか」だった。インド人もはしかにかかり、そうして治癒したら、落ち着くところに落ち着いたのです。

私は「はしか」にかかった日本人を見た経験があったから、ストライキのときに言いました。「慌てなくていい」──インド人は農耕民族で工場従業員として働く経験がなかった。だから、工場労働についてよくわからないから騒いでいるんだ。放っておけばいつか終わる。

案の定、ストライキから3カ月経ったとき、3000人中1500人のワーカーが職場に戻ってきました。私は彼らに誓約書を書いてもらってから、工場に受け入れました。ストライキや暴動は、「はしか」にかかった日本人と一緒ですよ。歴史は繰り返すとはよく言ったものだと思いました。

■モディ首相「いつインドに引っ越すのか?」

結局、インド社会にスズキが受け入れられたのは、最初から第三者ではなく、評論家でもなく、当事者として入っていって、言うことは言って仕事をしたからでしょう。分け隔てはしたことがない。ですから、インド人は私のことを仲間だと思っていますよ。

グルチャラン・ダスさんは、『日本人とインド人』のなかで私のことを「生粋のマルワリ商人(※)」だと書かれていますが、私はインド人になったつもりで、インドという国を立派な国にして、さらに、みなさんに豊かな生活を送ってもらいたいと思ったのです。

※グルチャラン・ダス氏が「インド人のビジネススピリッツを象徴する存在」と語るマルワリ商人。氏は、トヨタやフォルクスワーゲンが来ないうちにインドに進出した鈴木修会長を、「決して大きな会社に属して働こうとは思っていない。小さくても自分の会社を持つ。しかも、新しい分野に挑戦する」というマルワリ商人の性格になぞらえている。

今の首相のモディさんと会うと、必ず、言われることがあります。

「ミスター・スズキ、あなたはいつ引っ越してくるのか?」

私はモディさんがグジャラート州の首相をやっていた頃からよく知っています。モディさんは経済改革をやってインドを発展させた人で、苦労人ですよ。州の首相時代には浜松の本社に来ていただいたこともあります。本当に苦労を重ねた方でね、インド人の心をひとつにして、インド人が豊かな生活を送ることを願って働いているのが彼です。

モディさん(ナレンドラ・モディ首相)とツーショット
撮影=上野英和
モディさん(ナレンドラ・モディ首相)とツーショット - 撮影=上野英和

■私がみる今後の「自動車業界の未来」

2018年の数字になりますが、世界市場において自動車の販売台数は9582万台、インドのそれは338万台です。

人々で込み合うデリーの風景
写真=iStock.com/urbancow
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urbancow

当社は2015年に、今後のインドにおけるマーケットを推計したことがあります。2005年から2015年を振り返ってみると毎年、7.9パーセント成長していました。その延長線上で考えると、インドの自動車マーケットは2030年に1000万台になる。すると、現在と同様シェア50パーセントを維持するためには、スズキは500万台になっていなくてはいけない。  

グルチャラン・ダス、野地秩嘉『日本人とインド人』(プレジデント社)
グルチャラン・ダス、野地秩嘉『日本人とインド人』(プレジデント社)

ただ、2018年、2019年はやや経済成長が鈍化しましたし、今年(2020年)は新型コロナウイルスの影響もあります。2030年の推計数字を下方修正する必要があるでしょう。それでもインド経済が成長していくことは間違いありません。世界でもっとも成長するマーケットです。

さて、当社はトヨタと提携してこれからの時代を乗り切っていくことにしました。うちは中小企業ですから、これまで、ひたすら車を売ることに専念して、幅広く物事を考える余裕がなかった。身の丈に合った車を売ってきただけです。

ところが、これからはハイブリッド、電気自動車、コネクティッド、自動運転といろいろなことを考えて車を造らなければならない。そうすると、うちだけではすべてはできませんから、トヨタと提携して指導を仰いでやっていかなくてはならないのです。

■トヨタと提携し、お互いに切磋琢磨

ただし、なんでもかんでも「教えてください、先生」と卑屈になってはいけません。

スズキが持っているもので、かつ、トヨタが持っていないものを通じてトヨタに貢献する。教わるだけの生徒という立場であってはならない。「なんでも教えてください」という根性ではダメ。お互いに切磋琢磨して、1パーセントでいいから、0.1パーセントでもいいから貢献できるように努力をしたい。

インドではスズキとトヨタで協力して、小さな車はスズキが提供する。スズキは2019年の6月からトヨタに少数ながら提供しています。そして、大きな車はトヨタから提供していただいてスズキブランドで売る、といった取り組みがぼちぼち始まっています。

鈴木 修(すずき・おさむ)
スズキ会長
1930年生まれ。中央大学法学部卒。中央相互銀行を経て、58年鈴木自動車工業入社。67年常務、73年専務を経て、78年社長。2000年会長就任。

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グルチャラン・ダス 著述家、経営コンサルタント
「タイムズ・オブ・インディア」に定期的にコラムを執筆。「ウォールストリート・ジャーナル」、「フィナンシャル・タイムズ」などに随時寄稿する世界知識人の一人。ハーバード大学哲学・政治学科卒業、ハーバード・ビジネス・スクールで学ぶ。リチャードソン・ヒンドスタンの会長兼最高経営責任者(CEO)、プロクター&ギャンブル(P&G)インディアのCEO、P&G本部の経営幹部(戦略企画担当)を務めた。小説『A Fine Family』(ペンギン)、劇作集『Three English Plays』(オックスフォード大学出版局)、エッセー集『The Elephant Paradigm』(ペンギン)などがある。ニューデリー在住。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(著述家、経営コンサルタント グルチャラン・ダス、ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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