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東北の球児に足りないのは「野球の能力」ではない…大谷翔平を育てた花巻東監督が日本一のためにやったこと

プレジデントオンライン / 2023年8月23日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

大谷翔平の母校・花巻東(岩手)の佐々木洋監督は、岩手出身者だけで甲子園で優勝するため、球児に一見野球とは関係のないあることを説いた。それは花巻東だけでなく、東北全体に波及し、2022年夏の仙台育英(宮城)の優勝にもつながっているという。フリーライターの田澤健一郎さんの著書『104度目の正直 甲子園優勝旗はいかにして白河の関を越えたか』(KADOKAWA)より一部を紹介しよう――。

■岩手出身選手のみで日本一を目指す花巻東

「菊池雄星がエースの花巻東が甲子園優勝に限りなく近づいた。岩手の選手たちだけであそこまで勝ててから、東北の子どもたちの意識が変わった気がします。仙台育英や東北の準優勝とは何か違うきっかけになったというか」

八戸学院光星(青森)の監督、仲井宗基に、東北勢の強化が加速した時期、きっかけを訊ねたときの言葉である。

2000年代以降、強化が進んだ東北勢の中でも、花巻東(岩手)は異質の存在である。

近年に限らず東北勢の躍進には、指導者なり、野球留学生という選手の存在なり、「外の血」の刺激が果たした役割が大きかった。しかし、花巻東が掲げるスローガンは「岩手から日本一」。岩手出身の選手だけで甲子園優勝を成し遂げることを目指している。

■「外の血」を入れなくても東北のコンプレックスは克服できる

「東北出身者のみ」どころか、岩手一県の出身選手のみでの挑戦。それは現代の高校野球において、東北に限らず、全国的にも珍しいスタイルだ。実際、過去10年の春夏甲子園優勝校の中で、同一県出身者のみという選手構成で優勝したチームは皆無。まして、そのスローガンを掲げたのは、東北勢の甲子園優勝がまだない時代である。

花巻東は私立校。選手を全国から集めるハードルは公立校に比べれば低い。蛮勇ともいえる挑戦だったが、それでも2009(平成21)年春はセンバツ準優勝、夏は甲子園ベスト4と、その実現の一歩手前まで迫った。そして、大谷翔平という世界最高峰のプレーヤーをも生み出している。

長年、指摘されている東北人の前に出ない性質や、弱いと指摘され続けたことなどを背景にした「全国で勝てない」というコンプレックス。それを東北の強豪校の多くは、意図的に、あるいは結果的に「外の血」の刺激によって克服しようとしてきた。しかし、花巻東の結果は、それがなくても克服可能であることを教えてくれる。いったい花巻東の何が東北人の心を変えるのだろうか?

■花巻東野球部を大改革した佐々木洋監督

「特待にしてもらえるなら、いいか」

藤原拓朗が花巻東に進学を決めたのは、そんな理由だった。故郷である岩手県沿岸部、釡石市は、当時の監督の出身地でもある。その縁に加え、地元の先輩が進学していたことも心強かった。中学では左腕エースとして活躍したが、目立つ実績は挙げていない。

甲子園に出たい。プロ野球選手になりたい。そんな望みはなかった。2001年(平成13)年、花巻東の野球部は、そんなことを想像させる状態ではなかった。最後の甲子園出場は1990(平成2)年の夏。その後は一関商工(現・一関学院)や専大北上、急激に力をつけた盛岡大付などに押され、県大会序盤で敗れるなど、低迷していたのだ。

「当時の花巻東に甲子園を狙えるイメージはなかったですね。私自身、とりあえず高校でも野球をやりたいな、くらいの気持ち。3年生にいい投手がいたので『ハマればもしかしたら』とは感じましたけど」

そんな藤原の高校野球生活が一変したのは1年生の夏。夏の大会で花巻東は1回戦負けを喫し、監督が交代したのだ。新監督となったのは佐々木洋。ご存じの通り、菊池雄星や大谷翔平を育て、現在も花巻東の監督を務める、あの佐々木である。

当時、佐々木は女子ソフトボール部の指導をしていた社会科の教諭だった。佐々木は花巻東に赴任後、バドミントン部の顧問を経て一度、野球部のコーチとなったが、女子ソフトボール部の立ち上げに伴い、その監督を命じられていた。

「コーチ時代を知っている先輩たちが『あの人ヤバいヤバい』と言っていて、厳しくて怖いと聞かされていました。実際にそれは間違ってはいませんでしたね。今とはイメージが違うと思いますよ。理不尽な暴力などはなかったですけど、取り組みの一つひとつに厳しいというか」

■数字を意識した目標設定

佐々木は1975(昭和50)年、岩手県北上市に生まれた。プロ野球選手に憧れて野球を始め、高校は地元の公立進学校、黒沢尻北に進み、大学は国士舘大でプレー。同期には古城茂幸(元・巨人ほか)がいる。ただ、佐々木自身は選手としては芽が出ず、捕手から外野手に転向後、2年の秋季リーグが終わる頃には、選手として実質的に「引退」。寮も出ることになった。選手失格の烙印を押された佐々木には時間がぽっかりできた。すると自問自答が始まる。

「オレはこのままでいいのか?」

プロ野球選手が夢だった。だが、それは叶わなかった。ならば野球の指導者に。そんな将来も視野に入れ教職課程は履修していた。そして、大学の先輩・水谷哲也が監督を務める横浜隼人(神奈川)でコーチ修業を始める。卒業後もそのまま横浜隼人でコーチを続けた後、1999(平成11)年、縁あって花巻東に赴任した。

「練習はガラッと変わりました。一番は目標設定。『目標を立てて、それに向かって取り組んでいくんだ』と説明され、野球ノートに来年の目標や大会まであと何日でその間に何をするかなど細かく全部書くように言われました。監督との交換日記みたいな感じでしたね」

■「プロ野球選手になりたい」ではダメ

大学時代、佐々木はコーチ修業と同時に、読書に目覚めていた。もともと本好きであったため、「時間もできたし、指導の役に立つかもしれないから」と大量の本を読むことにしたのである。勉強になったのは野球の本よりもビジネスや自己啓発の書籍。ナポレオン・ヒルや中村天風といったその道の大家の本を読みまくった。

その結果、わかったことは「どの本も結局、同じことを言っている。全ては同じところに行きつく」ということ。「同じところ」とは「目標の立て方と夢の持ち方」「それをどう実現するか」の2つ。そのため、選手にも「目標設定」を課したのだ。

特徴的なのは藤原の言葉にあるように「あと何日」など「数字」を重視したことである。

「今日、何をするか。1週間、1カ月後も。卒業して1年後、3年後、5年後、10年後、自分がどうなっていたいかも書きました。最初は目標設定をする意味がわからなかったんですけど、やっていくうちに少しずつ自分の中でも『こうなりたいから、これをする必要があるかな』と考え方が変わっていくことを実感できたんです」

設定する目標自体も、たとえば「プロ野球選手になりたい」「銀行員になりたい」という表現はNG。どの球団でプレーしたいのか、どの銀行に入りたいのかまで書かせる。実際に入れるか否かは別にして、なるべく具体的に、明確にした方がそこに近づけるという考えからだった。

■打力を補う細かなプレーの練習を強化

一方、グラウンドでの練習も変化した。

「細かなプレー一つひとつにすごく時間をかけて練習するようになりました。牽制や挟殺プレー、ディレードスチール、トリックプレー、セーフティスクイズなど。相手をねじ伏せるような打力がなかったので、いかに出たランナーをホームにかえすかにすごく時間をかけました。私の場合、セーフティスクイズなどは存在すら知らなかったので、新しい野球というか、自分たちが見てきた野球を変えてくれたというか、野球の深さを学びました」

野球グラウンド
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

それらはトップレベルの強豪校がしのぎを削る神奈川の高校球界での経験が活きているのだろう。カバーリング、バックアップの徹底は、横浜隼人の「お家芸」である。

「非常に細かくいろいろなカバーリングやバックアップを全力疾走で行うようになりましたね。私は投手ですが、走者なしでセカンドにゴロが飛んだら、投手も捕手とは別の方向へファーストカバーに走る。そんなの初めてで最初は疲れました。とにかく投げ終わって、ずっとマウンドにいるということがないんです。種類が多すぎて今は覚えていないくらい(笑)」

さらにはウエイトトレーニング。

「今も学校にはウエイト器具があると思いますが、あれは監督が就任直後に揃え始めたものです。強豪校との体格差を感じていたんでしょうね」

■「チワッ!」「チィース!」のような挨拶は禁止

そして、何よりも厳しく変わったのが日常生活や精神面の指導だった。

「『他の生徒の見本になりなさい』とよく言われました。それまでの『チワッ!』とか『チィース!』みたいな挨拶は禁止。きちんと立ち止まり『おはようございます』『こんにちは』とはっきり挨拶するようにと指導されました。あと『野球は助けてくれないよ』とも言われましたね。野球が終わってからの方が人生は長い。一般社会に出たら野球をやっていたとか関係なくなって、野球が自分を助けてくれなくなるから、人としてしっかり生きていけるようになりなさい、と。それまでは野球だけやっていればいい、みたいな雰囲気でしたけど」

空気も取り組みも一変した野球部。佐々木は改革を進める一方、選手たちにも妥協を許さず、気の緩みが見えると厳しく指導した。

「本当に厳しかったです。カバーリング一つとっても、全力疾走を少しでも怠るとめちゃくちゃ怒られる。ノックでも元気がないと途中でやめて帰ってしまったり。監督もまだ20代でしたし、今はそんなことしないでしょうけど。当時はほぼ1人で練習を見ているような状態でしたね」

■やらされる野球から自ら取り組む野球へ

日々がキツく厳しくなったが、藤原は不思議と嫌な気持ちにはならなかったという。

「前はやらされている感じだったのが、目標設定によって自ら取り組む野球に変わったからですかね? 目指すところがはっきりしたというか。前の監督のときは先輩が監督への不満をけっこう口にしていましたが、佐々木監督になってからは厳しいけど、あまり不満の声はなかった。野球ノートのやりとりで監督ともコミュニケーションを密にとれるようになったのがよかったのかもしれません」

ただ、だからといって急激に結果が出るわけでもない。夏休みの練習試合は、当時の状況から相手が強豪校ばかりというわけでもないのに勝ったり負けたり。近所の普通の公立校に負けることもあった。

「毎日が必死だったので、強くなっているのかなんて、気にする余裕もなかったですけど(笑)」

ところが、佐々木の就任後、初めてとなる公式戦・秋季岩手県大会で、藤原を驚かす結果が出る。なんと準優勝してしまったのだ。

「自分たちでも要因はよくわかりません。ただ、セーフティスクイズやディレードスチール、細かなカバーリングなどは、当時、岩手の他校ではやっていませんでしたから、効果を発揮した場面もあったし、それが自信につながっていたかも。ただ、この結果で『あれ、オレたちけっこうやれるのかな?』という気持ちにはなれましたね」

東北大会は初戦敗退だったが、チームには朧気ながら「甲子園」の姿が見え始めていた。

■「東北と関東・関西で選手のポテンシャルに差はない」

佐々木は「岩手から日本一」という目標を心の中に秘めていた。

横浜隼人のコーチを務めた最後の年、1998(平成10)年は、松坂大輔(元・レッドソックスほか)がエースの横浜高(神奈川)が高校球界を席巻していた。間近でそのすごさを体感した佐々木は、「あんなレベルの高い選手がたくさんいるなんて、神奈川と岩手は違うな」と感じた。

だが、帰郷して岩手の高校野球や中学野球をあらためて見ると「選手のポテンシャルはそれほど変わらないのでは?」と感じるようになった。もともと自身の目標設定により、「28歳で甲子園出場」、具体的な年齢は明かさなかったが「40歳前で全国制覇」という目標は定めていた。そこに岩手の選手たちで、という夢がプラスされたのは、そんな感触を得たからである。ただ、野球部の「再建」を始めた当初、藤原たちの時代はまだ「日本一」は、遙か遠い先にある目標だった。

「のちのち日本一を目指す、という空気も出てきたのでしょうが、自分たちのときは監督も口にはしていなかったと思います。甲子園だって……僕自身は普通に出られると考えられるようになりましたけど、チーム全体としては、意識改革はしたけど本当に甲子園に出られるのか疑問は残っていた。今、思えば、だから結局、甲子園には出られなかったんでしょうね」

藤原たちの最後の夏は、岩手大会準決勝で福岡に延長10回、2対3で敗戦した。県内有数の速球派左腕となっていた藤原は、卒業後、社会人野球の強豪であるJFE東日本へと進みプロを目指すも叶わず3年で選手を引退。しかし、その後はマネジャーを11年務めるなどチームに欠かせない人材となった。

その経験を買われ、2018(平成30)年からは新たに結成された社会人野球チーム・エイジェックのマネジャーにヘッドハンティングされ、後に都市対抗に初出場するチームの土台固めに貢献。プレー以外の部分でも高く評価された野球人といえよう。

「そうですかね。まあ、高校時代にコミュニケーション能力も成長しましたから」

■変えるべきは心

佐々木はミーティングも重視していたが、その場で自身が一方的に話すのではなく、選手にも発言を求めた。

田澤健一郎『104度目の正直』(KADOKAWA)
田澤健一郎『104度目の正直 甲子園優勝旗はいかにして白河の関を越えたか』(KADOKAWA)

「ミーティングでは思っていることをはっきり言わなければならない場面が多かったです。どうしたら勝てるか、チーム全体で目指すところを一つにするには、とか。監督はレギュラーと控えで温度差が出ないよう心がけているように感じました。試合後のバス移動中もその日の反省点を1人ずつ発言したり。人前で話すことには慣れていったと思います」

東北高、仙台育英で監督を務めた竹田利秋が、選手たちに意見の表明を求めたことは第2章で触れた。第5章では楽天シニアの選手たちが堂々と自分の意見を述べることを促されていたことがわかった。いずれも「自分から前に出ていかない」「おとなしい」といわれ続けてきた東北の選手の意識改革のためと思われる。ポテンシャルは関東や関西の選手とも変わらないのであれば、変えるべきは心――。佐々木もそんなふうに考えていたのだろうか。

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田澤 健一郎(たざわ・けんいちろう)
編集者・ライター
1975年生まれ。山形県出身。高校時代は山形の強豪校、鶴商学園(当時・現在の鶴岡東)で、ブルペン捕手と三塁コーチャーを務める。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターに。野球などのスポーツ、住宅、歴史などのジャンルを中心に活躍中。マニアックな切り口の企画を得意としている。共著に『永遠の一球~甲子園優勝投手のその後』(河出書房新社)など。

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(編集者・ライター 田澤 健一郎)

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