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ダントツ1位は「高輪」だったのに…なぜかゲートウェイにしてしまう「キラキラ駅名」という残念な風潮

プレジデントオンライン / 2023年10月30日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

2018年12月、JR東日本は東京の山手線新駅を「高輪ゲートウェイ」と命名した。同社の公募では、「高輪」がダントツ1位だったが、なぜか「ゲートウェイ」が付いた。地図研究家の今尾恵介さんは「これまで駅名にはその土地の名前を付けるのが一般的だったが、最近では歴史を無視した『キラキラネーム』が増えている」という――。

※本稿は、今尾恵介『地図バカ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■全国に普及した「自由が丘」的ネーミング

東京の都心から見て南西の郊外に位置し、畑の中に農村集落が点在していた荏原(えばら)郡碑衾(ひぶすま)町大字衾(ふすま)字谷権現前という土地。ここに電車が走り始めたのは昭和2(1927)年の8月28日のことである。

渋谷と神奈川(横浜市)を結ぶ東京横浜電鉄(現・東急東横線)で、ここには九品仏(くほんぶつ)という駅が設けられた。西ヘ600メートルほどの名刹・浄真寺に安置されている9体の阿弥陀如来像を意味し、それが寺の通称になっていたのだ。

ところがこの駅は2年後に改称している。浄真寺にさらに近い場所に目黒蒲田電鉄(現・東急)大井町線の現九品仏駅ができたためであるが、旧九品仏の新駅名は自由ヶ丘(現・自由が丘)となった。

この「通称地名」は舞踏家の石井漠の命名、もしくは自由ヶ丘学園に由来するというが、やがて昭和7(1932)年に碑衾町が東京市に編入されて目黒区となった際(厳密にはその数カ月前)、大字衾の界隈は正式に自由ヶ丘という町名になった。

「モダン文化」を象徴するようなこの地名に憧れる人は多かったようで、その証拠に『新版角川日本地名大辞典』(DVD-ROM版)によれば、目黒区の「本家」の他に18もの自由ヶ丘(自由が丘)が全国に存在する。「○○が丘」は高度成長期の新興住宅地の名に広く採用され、普及していく。そういう私も南希望が丘という町で子供時代を過ごし、横浜市立さちが丘小学校を卒業した。

■歴史的由来よりもキラキラネーム

「○○が丘」に新味が薄れてくると、今度は「○○台」、やがて「○○野」などと流行は移るのだが、既存の歴史的地名との差別化を図りたい宅地開発業者と、カッコ良い地名の町に住みたい新住民の利害は一致し、この手の新地名は新駅名とともに増えていった。

しかし決めた瞬間から少しずつ古びてしまうのは新地名の宿命で、子供の名前に「オンリーワン」のキラキラネームが目立ち始めた頃、駅名にも新手のキラキラがじわじわと増えていったのである。

その中でも鮮烈だったのが、平成17(2005)年開業のつくばエクスプレス(秋葉原~つくば)だ。特に南流山(みなみながれやま)駅から先は、既設駅の守谷を除いて流山セントラルパーク(前平井)、流山おおたかの森(西初石)、柏の葉キャンパス(若柴)、柏たなか(小青田(こあおた))、みらい平(東楢戸(ひがしならど))、みどりの(萱丸(かやまる))と連続する。

ちなみにカッコ内は従来の地名で、いずれも江戸時代から続いてきたものだ。しかし新住民にはこれら歴史的地名は歓迎されなかったようで、すでに駅名と同じ名称や別の新町名に改称されつつある。

■いつまでこのお遊びは続くのか

特にみらい平駅の一帯は「みらい志向」が強いらしく、平成の大合併では冗談でなくつくばみらい市(伊奈町+谷和原(やわら)村)となった。

駅の付近にはどんぐり通り、みらい通り、すこやか公園、なかよし公園などがキラキラと並んでいる。そのお化粧されたほほえみ的ニュータウンの「地下」には、もちろん旧来の大字や小字の歴史的地名の死骸が埋まっているのだが、誰も気にする様子はない。

新幹線が開通すると並行在来線が第三セクターに移管される仕組みになっているが、それらの会社名・線名もキラキラ路線がずっと続いており、終息の兆しは見えない。

東北本線(盛岡~目時(めとき))改め「IGRいわて銀河鉄道」、北陸本線(倶利伽羅(くりから)~市振(いちぶり))改め「あいの風とやま鉄道」、江差線(五稜郭(ごりょうかく)~木古内(きこない))改め「道南いさりび鉄道」など、ひらがなに加えて何か観光アピールできる素材を足すのが流行らしい。

私が仰天したのは「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン(旧信越本線、妙高高原~直江津)」「日本海ひすいライン(旧北陸本線、市振~直江津)」というものだ。

地元の人がこれだけ長い線名を口にしているとは考えにくいが、実生活に不便をもたらしかねないこの種の「お遊び」はいつまで続くのだろうか。命名者本人はイマ風に洒落たつもりなのかもしれないが。その点「三陸鉄道」は質実剛健でほっとする。

■誰が「高輪ゲートウェイ」と決めたのか

そこへ来て、2018年12月に決まった東京の山手線新駅「高輪(たかなわ)ゲートウェイ」である。ついに東京都区内にもこの手の駅名が上陸したかと感慨深いものがあったが、この駅名に異議を唱える作家の能町みね子さんが始めた「反対」のネット署名はわずか1カ月の間に4.7万件を超え、私も一緒にこの重い署名簿をJR東日本へ提出してきた。

駅名は同社が公募し、結果はダントツ1位が「高輪」であったにもかかわらずの決定だったこと(高輪ゲートウェイは130位)への反感も後押ししたらしい。署名者の意見を少し読んだ限りでは、むしろ若い人たちの方が「わざとらしく飾らない方がいい」との感覚を持っている印象だった。

ゲートウェイもみらい平も、また三セク会社の名前にしても、決めたのはおそらく「名士」クラスの中高年のおじさん(私の世代)だろう。昨今の教育現場ではしきりに「国や郷土を愛する心」が強調されるけれど、歴史的地名を葬ってキラキラを量産する人たちが要所に居座っていて、どんな愛国心が育つのだろうか。

高輪ゲートウェイ駅
写真=iStock.com/Ryosei Watanabe
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ryosei Watanabe

■なぜ目黒駅は目黒区にないのか

山手線の目黒駅は目黒区ではなくて品川区、品川駅は品川区ではなくて港区にある。最近ではかなり知られるようになったが、これをもって地元が鉄道の建設に反対したという「伝説」が巷間に広まるのは困ったものだ。

目黒の方は「目黒駅追上事件」と呼ばれ、汽車の煙や振動が農作物に悪影響を及ぼすと住民が反対し、現在地へ追いやったという。この手の「鉄道忌避伝説」は全国各地に見られるのだが、証拠もなく疑わしいものがほとんどだ。反対運動が証明されているものは、たとえば線路の築堤が川の氾濫の際に水を滞留させて困るなど具体的な理由からで、当時の人もそれほど非科学的なことは主張していない。

後付けでこのような忌避伝説が生まれる背景を考えてみると、「駅は都市の中心に作られるもの」という誤解があるようだ。

日本の主要幹線が敷設された明治期といえば、日常的に汽車を利用する人はあまりいない。駅の機能からしても現在と違い、乗客の他に貨物も扱うから広い用地が必要で、かつ地盤が良好で構内が水平であることが求められる。そもそも当時は旅客を奪い合うべき自家用車など存在しない。誰が好んで密集地の家屋を立ち退かせ、駅を市街地のまん中になど作るだろうか。国鉄のライバルとなる私鉄がより利便性の高い場所に駅を作るケースだってあると言われそうだが、それはだいたい昭和に入ってからの「電車の時代」の話である。

■駅名が地名になっていく

明治22(1889)年に全通した当時の東海道本線でも、藤枝駅(静岡県)は青島(あおじま)村、豊橋駅(愛知県)は花田村、彦根駅(滋賀県)は青波(あおなみ)村、大阪駅でさえ曽根崎村にあり、いずれも同名の市や町、村にはなかった。今ではいずれも駅と同名の市内に含まれているが、品川駅や目黒駅のケースはたまたま「隣村」との境界が今に至っているだけである。

山手線の駅で変わり種なのが恵比寿駅だ。周知のようにビールの商品名そのもので、日本麦酒醸造会社の貨物専用駅が後に旅客も扱うようになった際、駅名をそのまま使ったのである。駅名になればやがてそれが「通称地名」となり、正式な町名に成長していく。今では既存の地名はすべて駆逐されて恵比寿、恵比寿西、恵比寿南という「商品由来の駅名にちなむ町名」が広いエリアを占めている。

恵比寿ガーデンプレイス
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

私鉄会社が乗客誘致のために命名した駅も地名化した。たとえば東京府北多摩郡小平村(現・小平市)大字野中新田(のなかしんでん)与右衛門組(よえもんぐみ)に設置された西武新宿線の駅は、「小金井のお花見にはこの駅が便利です」というメッセージを込めて花小金井駅と命名されたが、これも昭和37(1962)年には正式町名に採用されている。

他にも山手線関係では新宿区高田馬場、豊島区目白、北大塚、南大塚などがそれぞれ駅名に合わせたもので、京王線の桜上水駅に合わせた世田谷区桜上水、目黒区祐天寺と横浜市港北区大倉山(いずれも東急東横線)、世田谷区豪徳寺(小田急小田原線)など枚挙にいとまがない。

■防諜を理由に名前が変わった駅

駅名変更の状況に注目するのも興味深い。わざわざ手間と費用をかけて変更するからにはそれなりの事情が存在する。たとえば観光振興。古い事例では和歌山県を走る紀和鉄道(現・JR和歌山線)が名倉(なくら)駅を明治36(1903)年に「高野山の入口」をアピールすべく高野口駅に改めたことだ。ついでながら所在地の名倉村も町制施行の際に駅名と同じ高野口町に変えてしまったほどだ。町当局の力の入れ方がうかがえる。

戦時体制下ならではの改称もあった。これは軍の施設を名乗る駅を「防諜(ぼうちょう)」を理由に地元の地名に差し替えるもので、昭和13(1938)年頃から徐々に全国で実施されていった。たとえば陸軍通信学校の最寄り駅であった小田急線の通信学校駅が、昭和15(1940)年に相模大野(当時は高座郡大野村、現・相模原市南区)と改められたし、その二つ先の士官学校前駅も相武台前になった。

■青山師範駅→第一師範駅→学芸大学駅

「前」のつく駅は神社仏閣や遊園地、大学などの最寄り駅として集客に威力を発揮するが、弱点と言えばそれらの施設が変わる度に改称しなければならないことだ。

今尾恵介『地図バカ』(中公新書ラクレ)
今尾恵介『地図バカ』(中公新書ラクレ)

たとえば東京横浜電鉄(現・東急東横線)は碑文谷(ひもんや)駅近くに青山師範学校を誘致して青山師範駅と改めるのだが、後に学校名が第一師範学校に変わったのに伴い第一師範駅となり、さらに新制大学が発足して東京学芸大学に変わると学芸大学駅に3度目の改称を行った。

大学を駅名にすることで地域の付加価値アップを狙う私鉄や地元自治体の意向に加え、18歳人口の減少に直面する大学の危機感もあいまってか、今世紀になって「大学駅」は急速に増えている。拙著『駅名学入門』(中公新書ラクレ)の執筆にあたって全国の「大学関連駅」を探してみたが、これほど急増しているとは思わなかった。

印象的なのは令和元(2019)年10月1日付で京阪電鉄が深草駅(京都市)を龍谷大前深草、阪神電鉄が鳴尾駅(西宮市)を鳴尾・武庫川女子大前、阪急電鉄が石橋駅(池田市)を石橋阪大前にそれぞれ改称したことだ。駅名は時代の空気を反映する。

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今尾 恵介(いまお・けいすけ)
地図研究家
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査を務める。『地図マニア 空想の旅』(第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(第43回交通図書賞受賞)、『日本200年地図』(監修、第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など地図や地形、鉄道に関する著作多数。

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(地図研究家 今尾 恵介)

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