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横浜の高校を「留年→退学」で島根に転校したら、東大に現役合格…「地方留学」で切り開く大学進学の新ルート

プレジデントオンライン / 2024年3月29日 13時15分

「地域みらい留学」から東大合格した鈴木元太くん - 写真=本人提供

進学実績のある「いい高校」に通っているが、なぜかしっくりこない。そんなときはどうすればいいのか。鈴木元太くんは高校1年のとき、横浜の進学校から、島根の町内唯一の公立校に移った。受験には不安があったが、その後、東大合格を果たし、都市工学を学んでいる。いまジワジワと広がる「地域みらい留学」という取り組みについてリポートする――。(第2回/全4回)

■スーパーサイエンスハイスクールを1年で退学

城下町の風情を残す白壁、水路を悠々と泳ぐ鯉。文豪・森鷗外の出身地としても知られる津和野は、「山陰の小京都」とも言われる美しい町だ。島根県の山間にあるこの小さな町に、鈴木元太くんがやってきたのは2016年のことだ。

島根県津和野町の風景
写真=iStock.com/Yusuke Ide
島根県津和野町 - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

元太くんはもともと北海道出身。中学のときに親の仕事の都合で横浜に引っ越したが、島根県とは縁もゆかりもなかった。彼をこの土地に導いたのは、地方の公立高校への越境留学を推進する「地域みらい留学」である。

じつは元太くん、津和野高校に入る前は、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校に通っていた。スーパーサイエンスハイスクール、科学技術人材育成重点枠指定校、スーパーグローバルハイスクールに指定され、最先端の教育を行う高校である。「みんなの高校情報」によると偏差値68という難関校だ。そこをあえて1年で退学し、山間地域の高校に再入学する道を選んだのである。

傍目にはドロップアウトのように見えたかもしれない。でも、けっしてそうではない。なにしろ彼は津和野で高校生活を送ったあと、東京大学工学部に進学するのである。なぜ彼はそういったユニークな進路を歩むことになったのか? それを理解するカギは“越境体験”にある。

■大自然から大都会への越境体験

話は北海道での少年時代に遡る。

元太くんは釧路生まれ、旭川育ち。祖父母が富良野で農業をしていたこともあり、遊びに行くと、いつも畑仕事を手伝い、野山で遊んでいたという。

「僕は小学生までずっと北海道で育ったので、もともと地方の暮らしになじんでいたというのがベースにあるんでしょうね。子どもの頃から自然と触れあって、与えられたおもちゃより、自分で工夫して遊ぶことも多かったです。環境には恵まれていたなと思います」

小学3年生からは野球を始め、冬はスキーもやっていたというスポーツ少年。その一方、読書が好きで、科学館に通うなど理科系の勉強にも興味があったという。

中学は自ら受験を希望し、旭川の国立に入った。しかし、その直後に転機が訪れた。

「中学1年生の5月に、親の仕事の都合で横浜に引っ越しをすることになったんです。学校は国立の中学校に編入しました。その引っ越しの経験が、僕にとってはすごく大きかったんです。北海道とは生活環境がまったく違うし、周囲の友人もすべて変わって、すごく刺激を受けました」

異なる環境に飛びこむと、こんなにも多くのことを学べるのか――そう気づいた元太くんは、その後、人生の岐路に立つたびに、越境し、新しい場所で新しいことに挑戦する道を選ぶようになる。

■研究に夢中になり、学校の授業に興味を失う

高校は前述のように横浜サイエンスフロンティア高校へ進学。科学に興味を持つ生徒が集まる刺激的な環境だった。しかし、元太くんは通常の授業に飽き足らず、北海道大学が高校生向けに行っている「Super Scientist Program」(北大SSP)に応募した。北大SSPとは、地球規模の課題解決に取り組む研究者の育成を目的としたプログラム。そこで彼が選んだテーマは、「北極圏トナカイの周遊経路の年次変化に関するリモートセンシングによる研究」だった。

「人工衛星が撮影した地球の画像データを使って、北極圏に生息しているトナカイの周遊経路がどう変化しているかを探るというものです。すごく好奇心の持てるテーマで夢中になりました。ただ、時間がかかる研究だったので、学校の授業にはあまり出なくなっちゃったんですけど……」

研究は島根に留学してからも続け、アメリカのニューオーリンズで開催された学会や、東京で開催された「国際北極研究シンポジウム」で発表を行うことになる。

国際北極研究シンポジウムにて
写真=本人提供
国際北極研究シンポジウムにて - 写真=本人提供

■大人を巻き込んで活動する被災地の高校生

トナカイの研究に加え、もうひとつ彼の心を捉えたのが、東日本大震災のボランティア活動だった。

「震災が起きたとき、僕はまだ小学5年生でした。旭川は震度が小さくてほとんど揺れなかったこともあって、あまり実感がなかったんです。でも、横浜に引っ越してから友人と話したら、すごい震度で大変だったと聞いて、あらためて震災について考えるようになりました。自分の目で現地を見たいという気持ちが芽生えてきて、いろいろ調べてみたら、高校生のボランティアを支援する団体があって、片道分の交通費を補助してくれることがわかったんです。さっそく申し込んで、被災地に行ってみることにしました」

高1の夏休み、ひとりで夜行バスに乗り込み、東北に向かった。

「宮城県や岩手県に行って、被災地で生活されている方や、同年代の高校生と交流しました。そのとき初めて震災の実態を知ることができたんです。それまで机の上で学んだこととはまったく別のもので、やっぱり実際に足を運ばなきゃわからないことがたくさんあるんだなと知りました」

現地の高校生たちは、復興のためにさまざまな活動を行っていた。カフェの運営、物産展への参加、ファッションショーの開催。大人たちを巻き込みながら、積極的に行動する姿を見て、「高校生でも地域や社会に働きかけることができるんだ」と感銘を受けた。

現地の高校生から「ボランティアに来てくれてありがとう」と言われたことが、いまも忘れられない。

「彼は震災体験を外国の方に伝える活動を行っていたんですけど、当時はまだ仮設住宅で暮らしていて、自分のことだけでも大変だったと思うんです。それにもかかわらず、ボランティアの僕に気をつかってくれた。僕はただの高校生で、いまは無力で何もできない。それでも、少なくとも足を運んで、現地のことを知ろうとする努力だけは続けようと決めました」

それから彼は東北に定期的に通い続けた。被災地の多くは過疎地である。日本社会が抱える問題の縮図がそこにはあった。もっと地域や社会とリアルに関わりながら学びたい――そうした思いが膨らんでいった。

■自ら決めた津和野への留学

北大SSPの研究活動にしても、震災ボランティアにしても、高校生としては勇気のいる“越境”である。なぜ彼にはそれができたのか。

「子どもの頃から旅行とか、自分で計画を立ててどこかへ行くことが好きだったというのはありますね。中学のときも普通列車で横浜から北海道に帰省したり、箱根まで自転車旅行をしたりしてました。高校時代は、東京から山口までヒッチハイクしたりもしました」

そういう冒険的な行動に、親が寛容だったことも大きいという。

「親も北海道から横浜へ引っ越して、新しい環境でいちからやっていこうとしていたわけで、そういうチャレンジに抵抗がないというか、前向きに捉えられるような家庭環境だったんだと思います」

研究とボランティアで充実した日々を送る一方、高校の授業の優先度は下がっていった。結果的に出席日数が足りなくなり、留年することが決まってしまった。かといって、自分がやりたい活動をやめて、1年生を普通にやり直す気持ちにはなれない。

悩みに悩んだ上で選んだのは、やはり“越境”する道だった。

「自分としてもここはいちど環境を変えたほうがいい、変えたいという気持ちが強くなって。国内、国外を問わず、留学できる高校を調べ始めました。当時はまだ『地域みらい留学』という名前がなかった頃なので(※)、あまり情報がなかったんですよね。そのなかで島根県の数校が留学をやっているということを知って、津和野高校に出会ったんです」

津和野の町を眺める鈴木元太くん
写真=本人提供
津和野の町に出会った - 写真=本人提供

※元太くんが留学した2016年当時は、島根県の数校が「しまね留学」という形で留学生を受け入れていた。それを全国に拡大する形で2018年にプラットフォーム化したのが「地域みらい留学」である。詳しい経緯は次回紹介する。

■生徒の「やりたい」を支えるコーディネーターの存在

島根のなかでも津和野を選んだ理由はなんだったのだろう?

「北海道は開拓後の歴史が浅いこともあって、津和野のように歴史のある町になんとなく憧れがあったんです。事前に見学にも行って、学校や町を案内していただきました。いろんな場所を見たり、現地の人の話を聞いているうちに、観光地ではあるんですけど、歴史・文化が住んでいる人の生活と結びついているんだなということがわかってきました。

『高校魅力化コーディネーター』がいたり、『地域おこし協力隊』として20代の移住者がいたりするのも魅力的だなと感じました。普通の学校だと、大人といえば先生だけですけど、津和野高校だったら、地域にいるいろんなタイプの大人と接する機会がある。それも決め手になりましたね」

高校魅力化コーディネーターの存在も地域みらい留学の特徴のひとつだ。津和野高校は生徒数減少による統廃合の危機をきっかけに、「高校魅力化プロジェクト」を開始。2013年から「高校魅力化コーディネーター」を採用している。

必ずしもすべての高校・地域に配置されているわけではないが、コーディネーターがいる場合は、生徒からのさまざまな相談に乗り、やりたい活動に応じて、高校と地域の大人たちとの橋渡し役を務めている。

「学校の先生とも、同級生とも違う関係性で相談に乗ってくれたり、情報を教えてくれたりするので、すごく助けられました。たとえば、学習環境ひとつとっても、首都圏と島根ではかなり違います。当時のコーディネーターさんはもともと東京の出身で、大学で専門的なことを学んだ方だったので、そういったバックグラウンドも含めてアドバイスをしてくれました」

■竹林を舞台にした地域活動

「みんなの高校情報」によると津和野高校の偏差値は45、生徒数は約200人で、地方にある典型的な公立高校だ。ただし、「T-PLAN」という名の「総合的な探究の時間」を設けているところに特徴ある。たとえば、1年生向けには「ブリコラージュゼミ」というプログラムが行われている。ブリコラージュとはフランス語で、その場にあるものを活かして手仕事でものを作ること。地域の大人たちが講師となり、生徒たちはさまざまな体験学習をする。

他にも農業・林業体験、議会見学、ブレイクダンス、着付け、空き家の改修など、項目は多種多様。また、高校生と地域の人々が対話する「トークフォークダンス」も継続的に行われている。生徒側から提案して「マイプロジェクト」を企画することもできる。

自由で自発的な学びが推奨される環境のなかで、元太くんは生き生きと活動に取り組み始める。なかでも熱中したのが竹林の保全活動だった。なぜ竹だったのか?

津和野高校時代は竹林の保全活動に取り組んだ
写真=本人提供
津和野高校時代は竹林の保全活動に取り組んだ - 写真=本人提供

「竹は比較的暖かいところで育つ植物なので。北海道にはほとんど生えてないんです。だから、中学で本州に来たとき、竹が生えているということに新鮮な驚きがありました。

さらに津和野に来てみたら、家のすぐ裏に竹林があって、たけのこを採ったり、簡単な竹垣や竹細工を作ったり、みなさん日常生活に竹をうまく使っているんですよね。それがおもしろいなと思って、コーディネーターさんに話をしたら、竹林を持っている方を紹介してくれたんです。

その方から竹に関していろんなことを教えてもらいました。竹は繁殖力がすごいので、放置すると景観や生態系に悪影響を及ぼすことがある。だから、生やしすぎないようにすることが大事なんですよね。他にも、竹で飯盒炊さんをする方法や、竹を使った器の作り方なども教えてもらいました。その経験がすごく楽しかったから、次は友達といっしょにやってみたりしているうちに、プロジェクトになっていったんです」

ちょうど当時、津和野高校では「地域系部活動」が始まり、元太くんたちは「グローカル・ラボ」という部を作って、竹林での活動を本格化させていった。

「地域の方に無償で竹林を貸していただいて、それを自分たちで管理することから始めました。春にはたけのこを採ったり、成長した竹は切っていろんなことに活用したり。小学生といっしょに竹飯盒をしたり、竹馬を作るイベントを開いたりもしました。自分たちで竹の使い方をいろいろ考えるのもおもしろかったですね。

たとえば、たけのこご飯を作る会では、体を動かすのが好きな子はたけのこ採りをして、料理が好きな子はご飯を作り、もの作りが好きな子は竹でお椀を作ります。メンバーそれぞれが好きなこと、得意なことを担当して、力を合わせる。竹を通して、みんなでひとつのプロジェクトに取り組む場を作れたのがおもしろかったし、僕にとってはすごく居心地がよかったんです」

元太くんが卒業したあとも、活動は引き継がれ、津和野には高校生が自由に使える竹林がいまもある。

「重要なのは高校生が何かやってみたいと思ったときに、その手段があることだと思うんです。僕の場合はそれがたまたま竹だったということ。活動の枠を決めてしまうより、自由な発想で遊べる環境があることが大事なんじゃないかなと思います」

■進学塾や大手予備校がない地方での大学受験

「総合的な探究」や地域活動で育まれる力は確かに大きい。しかし、親の視点で見た場合、やはり気になるのが大学進学だ。「田舎の公立校で受験勉強は大丈夫なのか?」という不安を持つ人もいるだろう。

参加している高校の多くは過疎地にある。そもそも高校生の数が少なく、大学の進学率も都市部ほど高くない。それゆえ進学塾や大手予備校もない。元太くんも最初は受験について心配していたという。

「正直、津和野に行ったことで学力は下がってしまったかもしれません。ただ、学校の宿題とかは多くないので、勉強の負担を減らしながら他の活動に注力できたのはよかったと思っています。

受験勉強については、津和野には『町営英語塾HAN-KOH』という公営の塾があって、サポートしてもらうことができました。英語以外にもいろんな講座が開かれていて、参考書もいろいろ用意されていて、すごく助かりました。休学して津和野に来ている大学生のインターンの方もいて、大学の話をいろいろ聞けたのもありがたかったですね」

当初、元太くんは東大に進学するつもりはなく、とくに憧れも持っていなかった。それが変わったきっかけは、やはり「竹」だった。

「竹でテントを作ったり、文化祭の入場門を作ったりしているうちに、広くいえばもの作り、抽象的にいえば空間や場を作ることに興味が湧いて、建築や街作りの本をいろいろ読むようになりました。そうしたら、東大の先生が書いている本が多いことに気づいたんですよ。大学へ行くなら、そういう先生たちのもとで学べたらいいなと思うようになったんです。

調べてみたら東大にも推薦型の入試があることがわかった。その制度なら自分がやってきた活動を踏まえて、学びたいことをアピールできるんじゃないかと思って、出願することに決めました」

竹で作った津和野高校文化祭の入場門
写真=本人提供
竹で作った津和野高校文化祭の入場門 - 写真=本人提供
竹テント
写真=本人提供
竹テント - 写真=本人提供

■地域活動を武器に東大推薦入試を突破

一次選考のセンター試験をクリアする学力はHAN-KOHを活用して身につけることができた。二次選考の面接では、北極圏のトナカイの研究と、津和野の竹林での活動が武器になった。机上で学んだ知識だけでなく、現場で頭と体を使って獲得したリアルな知恵。経験に裏打ちされた“自分の言葉”で話せる高校生はなかなかいない。

学校の授業よりも、自分の研究とボランティアを優先したこと。進学校をやめて、地方に留学したこと。受験勉強より竹林での活動に熱中したこと。都会的な教育観からすると、回り道に見えるかもしれない。

でも、彼は悩みながら、たえず自分の頭で考え、自分の判断で動いてきた。その結果、気づいてみれば、これからの大学生に求められる素養をすべて身につけていたのである。都市部の受験生とはまったく異なる、独自のやり方で彼は東大合格をつかみ取った。

ちなみに津和野高校は今年も推薦入試で東大合格者を輩出したという。

■大学に入ってからも続いた津和野との縁

大学では工学部の都市工学科で学ぶ一方、進学校出身ではないメンバーによるサークル「UTFR」(東京大学フロンティアランナーズ)でも活動した。子どもたちに東大生を身近に感じてもらい、東大をめざす人たちを支援する活動を行う団体だ。

「都市部と地方で教育格差がある原因のひとつは、大学生との接点が少ないからだと思うんです。僕は津和野高校に来ていたインターン生のおかげで、大学生に触れる機会がありました。それでも受験の情報や、大学生活については知らないことが多かった。僕自身、もっと大学生に会う機会があったらよかったなと思うし、地方の子どもに今の学びの延長に大学の学びがあるっていうことを実感してもらいたい。それが活動のモチベーションにはなっています」

石垣島をはじめ、各地域の教育委員会と連携し、小中学校を訪ねて、講演やワークショップを行ってきた。

津和野とのつながりも続いている。2020年から22年にかけては1年半ほど、津和野に“里帰り”して、高校魅力化コーディネーターのインターンを務めた。

「部活のことだったり、進路のことだったり、学校の先生とは違った形で、身近な立場で高校生の相談に乗るようにしてました。

当時はちょうどコロナ禍だったので、大学の授業もほとんどオンラインになっていたので、基本的にはずっと津和野にいました。東京と島根を行き来することで、自分を相対化して言語化できたというか、片方で『つらいな、生きにくいな』と感じることがあっても、もう片方の視点から見ると、『それほどでもないか』と思えたりするんですよね。僕が津和野に通い続けているのは、自分を客観視する機会を持てるからなのかもしれません」

コロナ禍という逆境に襲われても、しなやかな発想力と行動力でチャンスに変える。彼自身にもとから備わっていた資質ではあるが、地域みらい留学の経験がそれをさらに伸ばしたのだろう。

■地方を活性化する留学生の存在

インターンが終わってからも、元太くんは大学の友人を誘っていっしょに津和野へ通っている。その活動は社会人になっても続けるつもりだという。

「親の転勤で北海道から横浜に来たときも、高校で島根に行ったときも、“越境”することでいろんな人に出会えて、それまでとはまったく違った視点でものを見ることができるようになりました。環境を変えてみること。別の世界に入ってチャレンジしてみること。社会に出ても、その気持ちを持ち続けたいと思っています」

生徒数が減っている地域の高校の定員を満たす。それが地域みらい留学のメリットのひとつだ。それに加えて、彼のように都会に戻っても、地域とのつながりを大切にし、定期的に戻ってくる若者がいる。なかにはその土地が気に入り、そのまま就職、定住する留学生もいる。

それによって過疎化の問題が一気に解決するわけではない。だが、留学生による“Pay it forward”、自分が受けた恩を次の人に返す好循環が始まり、未来につながる何かが育まれようとしている。

次回は、「地域みらい留学」の枠組みがどのように出来上がったのか、地域・教育魅力化プラットフォーム代表理事・岩本悠氏のインタビューをお届けする。

(第3回に続く)

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柳橋 閑(やなぎばし・かん)
ルポライター
1971年東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。『週刊文春』『スポーツ・グラフィック・ナンバー』編集部を経て、フリーランスに。近年はスタジオジブリを取材。鈴木敏夫プロデューサーの著書『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文藝春秋)、『読書道楽』(筑摩書房)などの構成を手がける。

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(ルポライター 柳橋 閑)

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